葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾と下肥 :綾瀬作業場の概要

 この施設は、従業員19人、3交代8時間就業で、施設の処理能力は1昼夜約1000石(180㎘)であった。昭和9(1934)年の計画では、東京市内の屎尿は1日3万石と見積もられ、そのうち下水道などで処理されるものはわずか2000石、残る2万8000石の屎尿は、1000石を綾瀬作業所で浄化処分、その他は近隣の農耕地帯に運ばれ、肥料として利用する予定であった。しかし、実際には官庁(官衛)、軍隊や公衆便所など、比較的肥料価値が低い屎尿が運ばれており、当初の計画通りに進めるには限界があったようである。

小菅中之橋風景(昭和18〔1943〕年頃)

堀切在住の岡田菊造が描いた昭和 18(1943)年頃の綾瀬川を往来する船。中之橋をくぐる際、帆を折りたたむ様子も描かれている。左端に見える四角い建物が綾瀬作業所。
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