葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■第2次世界大戦下の生活 :戦時下の葛飾区民の生活

 昭和12(1937)年に日中戦争が勃発し、昭和20(1945)年の太平洋戦争の終了まで、葛飾区内でも多くの人達が兵士として出征し、銃後として残った人達も戦争への協力を求められた。また、太平洋戦争下では空襲のため多くの区民が命を落としたり、家を失ったりしている。
 戦争が激しくなるにつれ、徴兵される人が増加し、神社などで出征兵士を送る催しが行われるようになった。女性達は、兵士の弾よけのお守りとなると信じられていた千人針注釈1-1を用意した。
 戦争の影響は学校生活にも表れ、10代前半の高等小学校生徒も軍需工場へ勤労奉仕に出るようになった。
 勤労奉仕は女子生徒にも重労働を強いていた。昭和19(1944)年に現在のお花茶屋の共栄女子商業学校(現共栄学園)の教師として、西新小岩にあったアルミ工場に勤労奉仕に行く生徒を引率していた木村礎の著書『少女たちの戦争』によれば、「通常は熟練男子工が行っていた航空機の燃料タンクのリベット打ちを女子生徒が行った。体の小さいものにはさすがに無理で、終日座り込んで板磨きをした。生徒はみな必死で、不良品が出ることは若い飛行機乗りの命を奪うことになるのでのんびりした雰囲気は全くなかった」注釈1-2という。 
 また、昭和 19(1944)年には閣議決定により学童集団疎開が実施されることになり、8月から実施された。多くの生徒が学童集団疎開に参加し、葛飾区の小学生は、親元を離れて新潟県の各地で集団生活をすることになった。

入営兵士を送る(昭和20〔1945〕年、鎌倉)
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愛国婦人会葛飾区分会による家庭の金属回収
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村の学校へ登校

男の子はみんな丸坊主、胸に名札。
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集団疎開した金町国民学校の児童の日記
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集団疎開に参加する金町国民学校の児童(現新潟県上越市)

6㎞もの道のりを、深い新雪にわら靴を取られながら薪を宿舎に運ぶ。
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注釈1-1:千人針は女性の持つ霊力を多く集めて出征兵士の無事を祈るという民俗的意味があり、特に寅年生まれの女性が加わることによりその力が増加すると考えられていた。
注釈1-2:木村礎『少女たちの戦争』、日本経済評論社、昭和 62(1987)年