葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾と下肥 :下肥の農村還元と市営くみ取り

 大正時代に入ると、東京の農業用地の減少に拍車が掛かり、化学肥料の普及も相まって、それまでの下肥の需要と供給のバランスが本格的に崩れ始めた。そこで、東京市は、大正8(1919)年に市営による屎尿のくみ取りを開始することとなった。このころになると、屎尿処理の合理的方法は下水道処理であることを、各方面の研究者が唱え始めていたが、大規模な都市整備の必要性と、それにかかる膨大な費用の捻出が難しく、一部の地域を除いて実現はしなかった。そのため、葛飾区域を含む東京東郊地域では、引き続き下肥の農村還元が行われていたのである。
 その後、昭和9(1934)年には旧東京市全域、昭和11(1936)年には葛飾区と世田谷区の一部を除いて、現在の23区内ほぼ全てが市営くみ取りとなった。東京市で集められた屎尿は、近郊農村での受け入れがなされ、埼玉県や千葉県の農村までもが、その対象となった。その際、郡農会や農事実行組合などで受け入れることとなり、大型の屎尿貯留槽の建設費や下肥運搬船の請負費は各組織において捻出されることが多かったという。
 また、昭和5(1930)年には「汚物掃除法」の改正により「各自治体の責任でゴミや糞尿は処理しなければならない」とされ、一般的な下肥の概念が「肥料から廃棄物」へと大きく変化した。
 東京市内で下肥の市営くみ取りが行われなかった葛飾区域では、下肥くみ取りを生業とする人々が、くみ取りに行ける場所では金銭を支払って下肥を購入し、そうではない場所ではくみ取りをしてもらう側から料金をもらい、くみ取り業を営んでいた。その場合、くみ取り料金は1荷(70ℓ)18銭ほどであり、その後下肥を売る際も同様の値段で販売していた。

綾瀬川を航行する船

後ろに見えるのは東京拘置所である。このような船を利用し多くの物資が運ばれた。下肥はその中の1つであった。
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