葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾と下肥 :屎尿処理の近代化と綾瀬作業所

 明治時代後期以降、日本の公衆衛生制度が整えられる中で、屎尿の近代的処理について医学、農学や工学(都市整備)などの分野で積極的に研究がなされるようになった。屎尿は腸管系病原微生物を含んでいるため、下肥としての直接的な農業利用を廃止し、全ての屎尿を下水処理することが望ましいとされた。その方法は、下水道、浄化槽や屎尿処理施設で処理されることをいい、そのための研究施設が各地に建設されることとなった。昭和初期に愛知県名古屋市に「下飯田汚物処理所」、京都府京都市に「十條屎尿処理所」ができ、東京市葛飾区小菅町に昭和8(1933)年「東京市清掃局綾瀬作業所」が完成し、翌年から屎尿処理が開始されている。
 この綾瀬作業所は、汚物貯溜槽や曝気槽、沈殿槽、消毒槽や残滓乾燥場などを併せ持つ施設であった。荒川放水路、綾瀬川に面した立地を生かし、東京市の中心部から搬入される屎尿を汚物貯留槽へ直接受けることができる仕組みとなっていた。また、屎尿を処理する過程で排出される汚泥は、加温・乾燥して、肥料として売却されていた。
 東京で初めての屎尿処理施設である綾瀬作業所が設立するまでの流れは、昭和5(1930)年11月25日、東京市会の「失業救済事業に関する調査委員会」が開催され、東京港の修築、家畜市場などの建設と併せて、屎尿処分場の建設予算が可決されたことに始まる。その後、昭和6(1931)年7月から予算36万6000円で建設が始まり、昭和8(1933)年3月に「促進汚泥式処理法」の施設が完成し、最先端の屎尿処理施設として稼働を始めたのである注釈1

東京・綾瀬作業所(『東京市清掃所事業概要』)
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綾瀬作業所一般図
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注釈1:山崎達雄『ごみとトイレの近代誌─絵葉書と新聞広告から読み解く─』(彩流社、平成 28〔2016〕年)