葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾と下肥 :共同貯留槽の建設

 昭和恐慌により大打撃を受けた農村部では、産業振興事業である「時局匡救事業」の一環として共同貯留槽の建設が行われた。そもそも葛飾区内では、家や集落単位で使用した小規模な「肥だめ」は多かったが、この時期に中川周辺で大規模な共同貯留槽の建設が頻発したとされている。この共同貯留槽は、特に肥料が乏しかった戦中・戦後に、大量の下肥をためられるため、農家の多くが利用した。

現在の水元北部に建設された共同貯留槽の分布図(昭和22〔1947〕年)
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「屎尿貯留槽計画図」(『柴田家文書』)
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