葛飾区史

第3章 近代化への道(明治~戦前)


第2節 東京市葛飾区の誕生

■葛飾区の誕生 :市郡合併

 東京市と隣接する郡部の町村が合併し、大東京を形成することは昭和6(1931)年12月の東京市議会で一応の合意が形成された注釈1が、その範囲や合併のタイミングについては東京市側ではなおも慎重な態度を取っていた。この段階でも合併する範囲は明らかにされず、実際はなおも議論が続いていた。 
 依然として根強く残っていた東京市議会や東京15区の区会の合併反対論の趣旨は、関東大震災からようやく復興しつつある中、財政危機にある隣接町村を合併することは現在の東京市の市民にとって大きな負担になるというものであった。また、合併するにしても、荒川放水路以西の町のみを対象とするという意見もあった。
 これに対して、合併運動を進めてきた市町村合併連合協議会では、5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)の一括合併を主張し、当該地域の東京府議会議員を中心として「東京市郡併合期成同盟会」を結成した。昭和7(1932)年1月14日にこの同盟会によって市郡合併の意志が示された。これを受けて、各町村の議会で次々と合併意見書または決議書を議決した。
 これらの動きを受けて、東京府は昭和7(1932)年10月1日を期して、東京市と隣接5郡82カ町村を合併させることに決し、手続きを整えて政府へ提出した。10月1日が選ばれたのは、明治31(1898)年のこの日が東京市役所を開設した記念の日であることによる。新しく誕生したのは20区である。東京市は35区を擁する大都市となった。

東京市の変遷
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市郡合併を記念して建てられた鳥居

小菅の旧家の屋敷稲荷の鳥居。
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注釈1:「市域拡張に関する意見書」を議決。