第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)
第1節 古代の葛飾
■古代の葛飾における災害 :摂関期の地方における災害対応
9世紀末から 11 世紀にかけては、地方の災害について詳細に記述する史料の数が減少し、その実態の把握が困難になる。しかし、貴族の日記などを詳細にみていくと、諸国で疫病が流行していたことや、地震とみられる災害が発生していたことがわかる。このような災害に対して朝廷がとった対応は、大般若経や仁王経などの転読、仁王会など仏事の実施、神社への奉幣などといった宗教的な政策にとどまった。使者を現地に派遣して被害状況を確認し、賑給を行うといったことや、租・調・庸などの租税の免除といった具体的な対策をとっている様子はみられない。これは10世紀以降、朝廷が現地の国司に、租税の徴収など幅広い権限を委任するようになるという地方支配のあり方の変化があり、地方で発生した災害への対応も、朝廷は神仏に祈願することで災害を鎮静化しようとするとともに、具体的な対応策は現地に委任するといった方法で対処していたと考えられる。
平安時代において、地方の災害対策の実施に熱心であったのは国司であった。すでに9世紀には、上野国の国司であった人物によって大般若経の写経が行われるなど、地方社会において国司たちは仏教信仰の担い手であり、災害対策として法会を行うなど積極的に仏教を地方支配に取り入れていった。このような国司の姿勢は10世紀・11世紀に入っても同様であり、法会・読経・仏像製作などが行われた。
平安時代後期の国司の行政に関する文書を多数集めた『朝野群載』巻22には、国司が仁王会の際に読み上げて仏の加護を祈った仁王会呪願文と呼ばれる文書が収められている。呪願文の内容は、国司が任期の最初に任国へ赴任した際に、国庁で仁王会を行い、天候の安定や穀物の豊作など任国の無事を祈願するとともに、税物が順調に納められ、国務が問題なく行われるようにと祈願されている。この呪願文は甲斐国のものだが、他の諸国でも仁王会が行われており、呪願文の内容も同様のものであったと考えられることから、下総国でもこのような呪願文が仁王会の時に読み上げられ、災害の予防と豊作といった任国の安寧が祈願されていたとみられる。
他にも国司は、任国内の神社に奉幣して任国の安寧を祈願し、天候不順の場合は祈雨・止雨なども行った。また、9世紀後半から10世紀以降になると、国司が行う仏事の場が国分寺から国府や神社などに移っていき、神社での神前読経が国司によって行われるなど、国司が地方の仏事・神祇祭祀を主導していくようになる。『朝野群載』巻22には、国司が任国へ向かう際に連れていくとよいとされている人々の中に僧侶があげられている。この僧侶は国のために祈祷し、国司自身を護持する役割が与えられており、国司と親しい者が選ばれていた。このような国司の行為は、宗教的な災害予防対策という面と、任国の安定が国司自らの利益に直結するという面があり、地方においては任国の安寧を祈願する仏事や神事が盛んに行われていたとみられる。