葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■古代の葛飾における災害 :国分寺の創建

 このように、災害に応じた物資の供給や税の免除や堤防の整備といった対策が行われる一方で、犯罪者に恩赦を与える、神社に奉幣注釈1する、経典の転読注釈2・読経注釈3などといった精神的な対策が災害発生時に行われることがあった。災害時にとられる神祇や仏教関係の宗教政策は、災害などによる混乱の収束だけでなく、今後も災害などが発生しないように祈りをこめた政策であり、神社への奉幣や経典の転読・読経といった事業には防災の意図もあった。
 こうした宗教政策の中でも、奈良時代で特に注目されるのが、全国における国分寺・国分尼寺の造営である。これは、仏教を篤く信仰した聖武天皇による、仏教の力によって国家の安定をはかるという鎮護国家の思想に基づいたものによる。
 国分寺・国分尼寺は天平13(741)年に詔 が出され、国ごとに七重塔を建て、金字の金光明最勝王経注釈4をそこに納め、金光明最勝王経と妙法蓮華経注釈5を書写し、毎月寺で最勝王経を転読するように定められた。そして国分寺には 20 人の僧を、国分尼寺には10人の尼をおくことが決められ、国分寺・国分尼寺を維持するための財源を設定した。
 下総国における国分寺・国分尼寺の建設地は、現在の市川市にあった国府と近接する場所が選ばれた。まず国分寺の塔を造営し、その後金堂注釈6や講堂注釈7などの諸施設と国分尼寺が造営され、奈良時代の後半には諸施設が完成した。天平19(747)年11月に出された詔によると、国司等の怠慢によって国分寺・国分尼寺の造営が全国的に遅れていたことが知られ、聖武天皇は使者を派遣して諸国の国司と郡司の協力を得て、3年以内に塔と金堂・僧坊を建設するように指示している。下総国分寺・国分尼寺の段階的な整備の様子もこの詔 の内容と合致している。古代の葛飾の地からは太日川を挟んだ対岸の台地に、完成した下総国分寺・国分尼寺の壮麗な七重塔がそびえ立つ様子が見てとれ、人々は日々の平安と災害の鎮静を祈ったのであろう。

「紫紙金字金光明最勝王経」巻十
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注釈1:神に幣帛、すなわちお供え物をささげること。
注釈2:経典を読むこと。長い経典の場合、本文を省略して最初と最後だけを読む場合や題名だけを読む場合などがある。
注釈3:声に出して経典を読むこと。
注釈4:鎮護国家、すなわち国を守護してくれる経典とされ、古代日本ではしばしば写経・転読された。
注釈5:法華経のこと。仏教の経典の中で基本となる経典の1つ。
注釈6:寺院の中心となる建物。その寺の本尊とされる仏像が安置される。
注釈7:寺院の中で経典を講義し、説法する建物。国分寺や国分尼寺では国中から集められた僧尼が講堂で経典の学習を行った。