葛飾区史

第1章 葛飾の風土と自然


第3節 東京低地と利根川の改変

■江戸時代以前の東京低地 :東京低地の開発と河川

 約6000年前の縄文海進以降、荒川と共に西の谷を流れていた利根川は、約1500年前に東の谷に移り渡良瀬川と合流して、中川低地・東京低地を拡大させた。東京低地には、旧海岸線に東西方向に延びる砂州が古隅田川や中川沿いにつくられたため、河川は蛇行した。旧中川の蛇行はその名残りである。現在の江戸川・古利根川・中川のほか、古隅田川・小松川境川・一之江境川は、かつて利根川であった河川の本・支流である。
 柴又八幡神社古墳(柴又3丁目)は、古墳時代末期の6世紀後半のものとされている。一方、古隅田川沿いの微高地上には弥生時代の遺跡や古墳がなく、古墳時代にはまだ入り江で陸地となっていなかったと思われる。その後、浅草の浅草寺境内からは奈良時代の瓦が発見されていることから、この時代までには古隅田川沿いも陸化したと推測できる。奈良時代には、柴又よりも下流側の現在の中川や江戸川沿いに三角州が成長し、大嶋郷が成立する。
 12世紀の鎌倉時代から16世紀の戦国時代にかけて建てられた石塔供養塔婆である板碑は、東京低地の自然堤防などの微高地上に分布する。
 中世末期になると、海岸線は南下し、現在の江戸川沿いの妙見島付近から現在の旧中川付近が海岸線であったと推定される。徳川家康が江戸に入る天正18(1590)年頃には、海岸線はさらに南下し、その前面には干潟が広がっていた。

東京低地の地形
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