葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■葛飾郡から葛西へ :新たな地域編成と葛西地域

 10世紀後半になると、任期が終わっても現地にとどまった国司の子孫たちや有力な農民の中に、国府から税負担を免除され、一定の領域を開発する者が現れ、荘園が次々と成立した。荘園の開発者の中には、国司からの税負担などを逃れるため、土地を都の有力な貴族や寺社に寄進する者も現れた。このような荘園を寄進地系荘園と呼び、寄進者は寄進先に年貢を納めることで土地の支配が認められ、国の立ち入りを認めない特権を得ることもあった。
 下総国内でも多くの荘園が成立し、国司が支配する公領と荘園に分かれた。葛飾郡内にも様々な荘園が成立したが、葛飾区域は伊勢神宮注釈1に寄進されて葛西御厨と呼ばれるようになった。御厨とは、本来天皇の食膳に出される魚介類などを調達するための所領であったが、平安時代末頃からは伊勢神宮で神に供えるための食物を調達する所領を意味するようにもなり、実質的には伊勢神宮の荘園のような存在であった。なお、葛西という地名は、太日川(現江戸川)を境にして、葛飾郡南部の東側を葛東、西側を葛西と呼んだことに始まるものである。

中世の下総国葛西御厨周辺

葛西地域は現在の東京都葛飾・江戸川・墨田・江東区にあたり、関東の諸河川が海へ注ぐ臨海部に位置していることがわかる。
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注釈1:三重県伊勢市に所在する神社。天照大御神を祀る皇大神宮の内宮、豊受大御神を祀る豊受大神宮の外宮からなる。