葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■古代の葛飾における災害 :9世紀の災害対策と国分寺

 平安時代前期の律令国家の災害への対応は、奈良時代のそれを踏襲しつつも、賑給による人々の救済がより強力に行われ、賑給の財源として救急料が新たに設定された。他にも、池溝の修理のための財源として修理池溝料が設定され、池溝の修理・築造が盛んに行われるなど、救済と防災政策に力が入れられるようになる。また、この時期は災害への対策として大般若経注釈1の転読や、悔過注釈2を諸国の国分寺などで行う、神社を清浄にするなど、神仏に対して祈願することで災害を鎮めようとすることも多かった。
 下総国分寺においても疫病の流行や災害、戦乱の予防、豊作祈願のために最勝王経や仁王 経注釈3の転読、悔過などの法会が行われていた。下総国分寺跡の発掘調査で出土した墨書土器の中に、「講院」と書かれたものがある。これは延暦 14(795)年8月に、それまで諸国におかれていた国師を改称して、国ごとに一人ずつおかれた講師に関わる施設が、下総国分寺にあったことを示すと考えられる。講師は仏教の講説に専念するためにおかれたが、後には国師が担っていた国内の僧尼と寺院を統制し、国分寺・国分尼寺の維持管理や経営に関与するようになるとともに、国分寺・国分尼寺での法会を執り行っていた。9世紀の国分寺は、国分寺に所属する僧以外の民間の僧侶も法会に参加させることで、流行する疫病や飢饉といった災害を沈静化しようとしていた。こうした法会に参加していた民間の僧を通じて、古代の葛飾区域の住人たちもその恩恵を受けていたであろう。
 また、下総国は承和年間(834-848)に相模・上総・常陸・上野・下野の諸国とともに一切経注釈4の写経を命じられているが、これも国分寺に設けられた写経所で行われたと考えられる。どのような理由でこの写経事業が行われたのかは史料に書かれていないが、飢饉や疫病などの災害が続いていた関東地方の諸国での写経事業であったことから、災害の沈静化が目的であったとみられる。

下総国分寺跡で見つかった「講院」と墨書された 土器
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注釈1:大般若波羅蜜経のこと。600 巻からなる経典で、古代の日本では災害を除き、福を招き国を護ってくれるとされ、しばしば転読・写経された。
注釈2:仏の前で自らの罪や過ちを悔い改めて利益を得ようとする仏教行事。
注釈3:国を護ることを祈願する法会である仁王会で読経される経典。法華経や金光明最勝王経と同様に災いを払い、福をもたらす経典とされ、しばしば写経、転読された。
注釈4:仏やその弟子の教えを説いた経、教団の戒律や規定についての律、経典などに書かれた仏教の教えを研究した論疏を含めた仏教に関する経典すべてを総称したもの。