葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■古代の葛飾における災害 :平安時代初期の災害

 平安時代に入っても下総国は災害に見舞われることが多かった。平安遷都直後の延暦16(797)年に、下総国で飢饉が発生し賑給が行われており、それ以降も承和2(835)年・承和10(843)年・貞観8(866)年に飢饉や旱魃によって、下総国に対して賑給が行われている。特に承和2(835)年と承和10(843)年には、飢饉とあわせて諸国で疫病の流行もあった。これらの飢饉や旱魃の際にも賑給だけでなく、朝廷は神社への奉幣を行うなどした。また、貞観6(864)年には、下総国の葛飾郡・印旛郡・相馬郡・埴生郡・猿嶋郡の人々に対して、水害や旱魃が頻発していることを理由に、 調 ・庸を2年間免除する勅が出されており、9世紀半ばの葛飾周辺は度重なる水害や旱魃に悩まされていたことがわかる。
 他にも、延暦 21(802)年9月に災害で田に損害を被った人に対して、租税を免除するといった対応がとられている。この災害とは、延暦 19(800)年3月から4月まで噴火していたと駿河国から報告があった、富士山の噴火によって引き起こされたものであると推測される。延暦 21(802)年1月には、読経を行って富士山の噴火による災害を鎮めるようにとの命令が出されていることからも、噴火は2年間にわたって関東地方に影響を与えていたとみられる。9月に出された租税を免除する対象地域が、下総国を含む東海道諸国と東山道の上野・下野などであることから、この噴火は東日本の広い範囲にわたって被害を及ぼしていたと考えられる。