葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■平安時代の下総と葛飾 :地方支配の変容

 律令制下では、郡司は譜第と呼ばれる地域の有力豪族が任用されていたが、8世紀末期からそのあり方に変化が生じてきた。地域支配は豪族層の郡司に任されていたが、8世紀後半になると新たに土地を開墾し自立的農業経営を行う「富豪之輩」と呼ばれる有力者が出てきた。こうした新興の富裕層の出現は、従来の譜第とされる郡司の在地における影響力を低下させ、郡司としての役割を十分に果たせない状況をもたらした。国家は郡司の任用を見直す必要から、延暦17(798)年に譜第の豪族から実務能力に優れた者を選任することに改めている注釈1
 田地開発推奨のため、養老7(723)年に本人から三代に限って、開墾地の私有化を認めた三世一身法を定めたが、思うようには進まなかった。天平15(743)年には国に申請し許可された土地の永年私有を許す墾田永年私財法が制定された。開墾地の収穫物を国に税として納めることとし、租税確保を図った。
 墾田永年私財法は人から土地への賦課に移行する契機となった。8世紀後半以降は、戸籍や計帳といった人頭支配の根幹を成す帳簿類もまた、実態とはかけ離れていった。当時の戸籍・計帳として残っているものはほとんどないが、延喜2(902)年の阿波国戸籍や、延喜8(908)年の周防国戸籍では女性が7割以上おり、阿波国戸籍では90歳以上の高齢者が20人余りも記載され、戸籍を作るたびに十分な更新がされていなかったことがうかがえる。
 戸籍の形骸化は、班田も実態からかけ離れたものになっていったことを示している。6年ごとの班田収授が、延暦20(801)年には12年ごととなった。10世紀以降、班田収授の実施に関わる史料は認められず、これに基づく租税徴収は行われなくなったのであろう。平安時代になると、人別に割り当てていた班田収授の見直しをしなければ国家財政は立ち行かなくなり、土地に重点を置いた支配方針に変わっていったのである。
 平安時代の下総国では国司による開発が行われている。天長8(831)年に下総国の未開発地であった空閑地700町余りを勅旨田注釈2として開発している。
 国司の職務は、守・介・掾・目 の4等官がそれぞれ責務を負っていたものを9世紀後半以降、最上位者に責任と権限を集中することで、租税徴収の確保を意図した。この最上位者は受領と呼ばれる。




注釈1:もっとも弘仁2(811)年には譜第の有力豪族が再び郡司に任用されるようになる。
注釈2:天皇の命令である勅旨により開発した耕地。