葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■暮らしの工夫 :井戸水

 大正時代以前には江戸川や中川の水を飲用水とすることがあった。例えば、本田川端町では井戸水の水質が総じて良くないので、中川の水を飲用水として使っていた。中川のほとりの水神の辺りの水は特に水質が良く、東京の下町に水売りに出る人たちがくみに来たほどだという。
 また、奥戸本町では下肥の運搬船を経営する家が何軒かあって、こうした船の船頭達は昭和初期まで川の水を炊飯のときに使っていた。米を洗うときに中川の水を使い、炊き上げるときの水は家の井戸水を桶でくんできた。
 農家は各家に井戸があった。下千葉町の旧家の井戸は大正時代以前は自噴するほど豊富な水が出ていたという。水質も良く、飲用水としてそのまま使っていた。口径7尺ほどの井戸で、飲み物や果物などを冷やすためにも使われた。この家の井戸は戦後になっても枯れることはなく、昭和22(1947)年のカスリーン台風の水害時にも水を得ることができたので、周囲の家は大変助かったという。
 奥戸新町では、井戸水は良い水が出る家とそうでない家とがはっきりとしていて、初午などに赤飯を炊くときには良い水の出る家に水をもらいに行った。良い井戸水でないと赤飯が赤くならないからである。
 金町、柴又町、新宿町には良い水の出る井戸が多かったが、大正時代に周囲に大きな工場ができて地下水を汲み上げたため、地盤沈下が起きて井戸水が枯れたり水の出が少なくなった所があった。
 このように時代や場所によって水の良しあしはあったものの、葛飾区域の井戸水の多くはくみ上げた時はきれいでも時間を置くと赤くなってしまう所が多く、水瓶などに溜めていて水をろ過して飲んでいた。樽の底に砂利を敷き、その上に棕櫚の葉と砂を何層か重ねて置き、そこへ水を流してろ過する。
 水道が普及すると井戸水を使うことは少なくなったが、その後も市場に出す野菜を井戸で洗うなど、昭和50年代まで井戸の利用が続いた。葛飾区内の井戸水は水に鉄分が多く含まれているので白いカブを洗ってしばらく置いておくと赤くなることがあった。

洗濯をする女性(昭和10〔1935〕年頃、本田木根川町〔現東四つ木〕)
戻る時は右上の×をクリックしてください