葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■水への畏れ :水神の祭り

 葛飾区内の各ムラではほとんどの所で水神が祀られている。現在では、祀り手もなく神社の一角に石碑だけが残っているものもあるが、昭和初期には多くのムラでにぎやかに水神祭りが行われていた。
 新宿町の日枝神社には昭和3(1928)年に新宿町の水神講の人たちが奉納した絵馬がある。この絵馬には当時水神講を構成していた25人の名前が連記されている。この人たちは下肥や土砂を運ぶ船の船頭達で、新宿の水神祭りは、彼らが中心になって行っていた。
 新宿の水神祭りはにぎやかで、毎年7月15日に行われていた。船頭達がきれいに洗った船を中川に出し、幔幕を張り巡らせてお囃子をあげ、船の上で飲食をした。また、水神が祀られている日枝神社の境内では相撲が行われ、八幡講と呼ばれる草相撲の仲間がやってきて相撲の勝ち抜き戦を行った。
 船頭たちが中心になって行っていた水神祭りは小谷野町にもあって、水天宮と呼ばれていた。かつては綾瀬川と古綾瀬川が分岐する地点の岸辺に祀られていたが、荒川放水路の開削によって隅田水門の傍らに、その後さらに小谷野町の稲荷神社の境内に移転した。この水天宮は、綾瀬川を航行する下肥運搬船の船頭たちによって祀られていた。この綾瀬川の船乗りたちの仲間は綾瀬川講中と呼ばれていて、綾瀬川流域の葛飾区、足立区や埼玉県草加市の船頭たちの集まりであった。祭礼の日、綾瀬川講中の人たちはそれぞれが保有している船で参拝にやってきた。到着すると綾瀬川の岸近くに船を係留し、境内で酒を飲んで一日を過ごした。
 本田川端町の水神では、現在も6月に祭りが行われている。かつては中川の岸辺に石碑と鳥居があっていかにも水神らしい趣であった。この水神祭りの前日に、ミヤナギと呼ばれる準備が行われる。この日はムラの旧家が集まり、水神の祠に取り付けてあるしめ縄を取り替える。かつては各農家が自分の家の水田で収穫したわらを持ち寄ってしめ縄を作っていた。
  水元猿町の水神では7月3日に祭りを行っていた。村の若者がお囃子をあげ、飲食を共にして一日農作業を休んだが、この日には必ずキュウリに箸をさしたものを、水神への供えものとして中川に放り込んだ。
 キュウリをあげる前に中川で泳ぐと河童に尻こだまを抜かれるといわれていた。この付近は昭和20年代まで子どもの水遊びが盛んで泳ぐ人も多かった。そのため実際に水難事故者もときおりあった。捜索する際には、たらいに鶏を乗せて流し、鳴き声を上げた所に遺体があるといわれていた。

中川の河畔に祀られていた水神(昭和30年代、本田川端町〔現東立石〕)
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小谷野神社の境内社 水天宮に奉納された碇
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中川堤防上に祀られている水神(平成28〔2016〕年、西水元4丁目)
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東立石の水神祭りの前日にしめ縄を新しくする「ミヤナギ」と呼ばれる行事(平成2〔1990〕年)
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