第5章 暮らしの移り変わり
第2節 低地で暮らす
■暮らしの工夫 :燃料の確保
昭和初期に、北総台地の村から金町へ嫁入りした女性の話によると、嫁に来て一番苦労したのはご飯を上手に炊くことであった。
女性の実家では薪で飯を炊くのに対して嫁入り先の金町の農家ではわらを使っていた。わらは火力は強いが火持ちが悪く、ぱっと燃えてさっと消えてしまうため、慣れていないとどうしてもご飯に芯が残ってしまった。
わらは燃料だけでなく、縄、むしろ、俵などの材料にも使われたほか、耕土が乾燥しないよう畑に敷いたりもした。大正時代は水元飯塚町では、夜なべ仕事で作ったわらじを松戸(現千葉県)で行われていた市に出荷していた。下千葉町でも老人たちがわらでぞうりを作って千住(現足立区)へ持って行き問屋に買い取ってもらっていた。そのためわらの全てを燃料に使ってしまうわけではなく、わらをよりすぐったときに出る屑の部分であるシビと呼ばれるところを燃料のためにとっておいた。
わらを煮炊きすることによって得られたわら灰は、大根やサツマイモを作るときに肥料として利用していた。そのため灰を保管しておく小屋を設ける家が多かった。また、わら灰買い、あるいはヘーヤ(灰屋)」と呼ばれる人が農家でためていた灰を買い集めていた。ヘーヤが集めた灰はノガタと呼ばれる関東ローム層の土地に存在する農村に酸性になりがちな耕土を中和させる材料として販売された。
風呂たきの燃料には薪を使った。田んぼの畦畔に生えていて稲を掛け干しするときの支柱に使われていたトネリコの木を切り倒して薪にした。トネリコは成長が速いので数年で大きくなる。大きくなりすぎて稲掛けには使いにくくなったものを切り倒して使った。
上千葉町では昭和初期には千葉県松戸市など北総台地から赤松の枝を売りに来る人から薪を購入した。松戸の春雨橋付近には広い範囲を行商して歩く燃料商がいて、薪や炭俵などをリヤカーに乗せて青戸町や亀有町辺りを売り歩いていた。
また堀切町や本田四ツ木町など宅地化の進んだ地域には早くから燃料商がいた。昭和20年代には堀切町だけでも7、8軒の燃料商があった。このころには岩手県などの山林の多い地域から貨車で亀有駅や北千住駅まで薪や炭が運ばれて来たので、そこまでリヤカーで取りに行った。また建築資材の切り落とし部分である「せいた」と呼ばれる木材が燃料として普及した。炭は燃料商で各家庭の注文に応じて専用ののこぎりで切って売っていたが、そのときに出る炭の粉を利用して、たどんを作った。たどんとは炭の粉を水で練り固めて乾燥させたものである。このように、堀切や四つ木など新しい町ができてくると燃料を購入して使うことが多くなってきた。
また、葛飾区域で一般の家庭に電気が普及したのは大正時代の終りごろである。当初は1灯いくらという契約で、1つの家で電灯があるのは1部屋だけという家が多かった。そのため灯油を燃料商から購入してランプで明かりをともしていた。