第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)
第3節 近世の葛飾
■葛飾と水③葛西用水とふたつの溜井 :後期葛西用水と小合溜井
享保4(1719)年に、中島用水から取水していた6カ領は、幸手用水(川俣)組合へ編成替えとなった。この時点で葛西用水の取水源は、江戸川から利根川へと移った。中島用水は単独の用水となり、幸手用水は葛西用水と結ばれて、葛西用水組合10カ領(葛飾郡幸手・松伏・二郷半・西葛西・東葛西上之割・同下之割、埼玉郡新方の一部、足立郡八条・谷古田の一部)の約300カ村、石高11万石の近世葛西用水体系が成立する。葛西領では、享保14(1729)年、河川の流れに大きな変化が生じた。猿ヶ俣で東流し、江戸川に合流していた古利根川が締め切られて、小合溜井(現水元小合溜井)が設けられた。一方亀有溜井に流れ込んでいた古綾瀬川が締め切られた。中川は川幅が約3倍に広げられ、本流となった。この工事は享保7(1722)年に8代将軍徳川吉宗が紀伊国(和歌山県)から招いた井澤弥惣兵衛が当たった。
井澤は、享保16(1731)年に古利根川との合流点が近く洪水被害が多発した松戸の樋ノ口の江戸川直流化工事、翌年には葛西領青戸付近の中川の直流化工事を行うなど、関東各地の河川改修と新田開発を推進した。
亀有の香取神社には、大正7(1918)年銘の「享保稲荷」と刻まれた井澤弥惣兵衛を称える石碑がある。享保14(1729)年中川を掘り割り、東ヘ1丈(約3m)の堤を築いて、川幅が80間(約144m)になったと記されている。改修直前の享保10(1725)年の川端村の村明細帳には、「古来川幅 廿四・五間」とある。
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