葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第4節 章間コラム

■地名の由来① :

 地名には、文献等で由来がはっきりしているもの、土地の伝承として言い伝えられてきたもの等があるが、ここでは、文献に記された由来を中心に紹介している。
 なお、由来が定かでない地名については、地名が記載された史料を記した。



葛飾区内の地名を知る史料
 古代では養老5(721)年「下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」(以下「養老戸籍」)、中世では伊勢神宮が荘園内の水田面積を調査した応永5(1398)年「葛西御厨田数注文」(以下「田数注文」)、後北条氏が家臣の名前と知行(領地)を書いた(以下「所領役帳」)等が基本文献となる。
 近世では、幕府が作成した国絵図に対応する村高を記載した1750年代の「武蔵国田園簿」(以下「田園簿」)、1700年前後の「元禄郷帳」、1830年代の「天保郷帳」がある。近代では明治政府による「旧高旧領取調帳」があり、村名としての地名を確認できる。また官選地誌『新編武蔵風土記稿』(以下「新編武蔵」)、明治10年代の「皇国地誌」は、過去の地誌を継承した形で地名の由来をのせている。



●葛飾
 諸説あるが、定説はない。アイヌ語を起源とする説や「かずら」が多く繁茂していたことからつけられたとする説、「狩場の方」だったことからつけられたとする説、「かつ」は、丘陵や崖の意味、「しか」は砂州などの低地という意味で土地の様子からつけられたとする説などがある。
【水元】
 近代の地名。明治22(1889)年、江戸期の旧村である飯塚・猿ケ俣・上小合・下小合・小合新田村が合併して名づけられた村名である。享保14(1729)年葛西用水の貯水施設として小合溜井(現水元小合溜)が作られ、上下之割用水の源であったことにちなむという。
【金町】
 中世からの地名。永禄5(1562)年4月16日、北条氏の家臣であった本田氏が葛西城を忍びで乗っ取った場合、功績として与えられる所領のひとつに「葛西 金町」がある。
天正18(1590)年、吉祥院(現在の葛西神社)が豊臣秀吉から朱印10石を与えられた際、取り次いだ浅野長吉(後の長政)の添状には、飯塚・猿俣・小合・柴又とともに名がある。
【柴又】
 「養老戸籍」にみえる「甲和・仲村・嶋俣」の嶋俣が柴又付近とされる。「田数注文」では嶋俣、「所領役帳」では柴俣とある。「皇国地誌」には「古ク闢ケシ村落ニテ往昔ハ柴俣ト書ス、元禄以後今ノ字ニ改ム」とある。柴又の地名は、河川が分岐する「俣」であり、土砂が堆積した島のような地形だったことが推定できる。
【新宿】
 中世からの地名。新宿は「新しく設定された宿場」という意味を持つ。永禄11(1568)年、北条氏が出した伝馬証文に「葛西 新宿」とある。新宿は下総・常陸・安房方面への要路にあたり、葛西城の建設に関連するといわれる。「皇国地誌」には、「本町ハ古ク聞へシ駅路ニテ北條氏分国ノ頃ヨリ既ニ駅亭ノ設アリ」とある。
【高砂】
 中世からの地名で古くは「曲金」と呼ばれた。昭和7(1932)年葛飾区誕生に際し、村内にあった字(村のなかの小地名)のなかから、縁起の良い高砂が採用された。
【細田】
 近世の新田村。「新編武蔵」は「正保ノモノニハ曲金新田トノス。其後元祿改定ノ國圖ニハ。細田村ト載テ。肩ニ曲金新田トアリ」とある。曲金村が新しく開発した新田で、後に一村となった。
【鎌倉】
 近世の新田村。「新編武蔵」に、「昔相州鎌倉郡ヨリ源右衛門トイヘルモノ。来リテ開發セシユヘ。此名アリト云」と明記されている。また村内から曼荼羅が掘り出されたため、曼荼羅村の別名もあった。