葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■葛飾と水② 船橋と曳舟 :曳舟川の景観

 篠原村と亀有村の二軒茶屋間の28町(約3㎞)を結ぶ曳舟は5〜7人乗りで、代金は1人24文・貸し切りは100文だった。『新編武蔵風土記稿』は、舟数を篠原村2艘・四ツ木村3艘・亀有村7艘であったと記している。
 大垣藩士大橋方長が安永9(1780)年に起稿した『武蔵演路』には、「東庄北ノ方綾瀬川流を業平橋東北橋際より葛西領世継村方を通りて今小川流る、是上水の地也、今ハ樋造作なき故、汐なとさし引在て常の川水也、常憲公(5代将軍徳川綱吉)御代ニ出来、文昭公(6代将軍徳川家宣)御代相止と云」と記されている。
 また、寺子屋で用いられた往来物である寛政12(1800)年の「鹿島詣文章」には、「綾瀬の橋を打渡り、齢ひ久しき亀有村、是より南、世継といへる所まて廿八丁、曳船にて往来す、名にし応ふ、葛西の浮洲の森を標的に、漕行と云し鄙唄も面白く、凡、葛西領ほど打闢きたる曠地ハ、諸国になきよし承る」と、乗船と葛西へ賞賛が述べられている。この他曳舟は、『遊歴雑記』『絵本江戸土産』『嘉陵紀行』などに記載がある。曳舟は明治15(1882)年頃まで行われていた。

名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね(安政4〔1857〕年、初代歌川広重)
戻る時は右上の×をクリックしてください

曳舟(HIKIFUNE ヒキフネ)
戻る時は右上の×をクリックしてください