葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■江戸東郊としての葛飾 :徳川将軍家と葛西

 徳川家康は鷹狩りを好んだことで知られている。同時に、鷹狩りは村の様子の把握や軍事訓練の目的も兼ねていた。鷹場制度注釈1は3代将軍家光が基礎を固めるが、5代将軍綱吉の生類憐みの令によりいったん中断後、8代将軍吉宗が享保の改革の一環として再編した。
 葛西領は広大な鷹場である江戸六筋注釈2の1つである葛西筋であった。鷹狩りの獲物のうち最も喜ばれたのは鶴であった。鶴御成は、将軍自らが鷹で鶴を捕まえて朝廷に献上する年中行事で享保期以降、葛西筋で行われた。
 葛西領には鷹狩りに関する史跡・文化財が多く残っている。江戸時代初期、青戸村の葛西城跡に休泊施設である青戸御殿が、新宿には休憩のための御茶屋が置かれていた。青戸御殿は、明暦3(1657)年の明暦の大火後、木材を復興に使うため廃止され、後に御殿山と呼ばれた。
 19世紀初頭の「埋木花」注釈3には、「青砥左衛門城跡 今御殿と云、少し森有之、但大六天弁天の小祠有、是ハ享保十四年酉中川堀之節、右当祠川中と成ゆへ此処へ引く、尤御殿地と云ふ所、元は広かりしか、是も五十年程以前中川堤押切り出水之節、御殿地之土を以築たメ、其跡ハ畑と成のよし」と記され、跡地は森や畑になった。
 葛西筋の鳥見役宅は、亀有村と上小松村にあった。鷹狩りの際、食事を取る御膳所には寺社があてられた。元文元(1736)年、小菅村の関東郡代伊奈氏の下屋敷内に小菅御殿注釈4が置かれたが、寛政6(1794)年に伊奈氏の失脚とともに、取り壊された。

中古倭風俗 幕府鶴御成之図(明治22〔1889〕年、香蝶楼国貞作)
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餌鳥札

鷹場は禁猟区であったため、餌となる鳥を捕獲するためにも許可が必要だった。
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旧小菅御殿石灯籠(葛飾区登録有形文化財)
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注釈1:将軍や大名などが鷹狩りを行うために設定した地域を鷹場という。鷹場では獲物となる鳥類を居つかせるために狩りや漁猟は禁止され、餌の飼い付けや獲物の輸送などの負担も課せられた。鷹場の管理や獲物の状況視察、報告は鳥見と呼ばれる役人が行っていた。
注釈2:江戸近郊に設定された6つの鷹場。葛西筋・岩淵筋・戸田筋・中野筋・品川筋・目黒筋がある。
注釈3:著者不明。江戸周辺の塚・墓・石碑などを図入りで紹介したもの。
注釈4:小菅御殿は、現在の東京拘置所がある場所にあった。将軍の鷹狩りの際の休憩所として利用された小菅御殿は、廃止後、江戸町会所の籾蔵、幕末期には銭座、明治時代には小菅県庁、小菅煉瓦製造所、小菅監獄になった。