葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■江戸東郊としての葛飾 :宿場町新宿

 新宿の起源は、戦国時代後期の15世紀中頃、下総・武蔵国境の軍事上の要所に置かれた葛西城と関連がある。永禄11年(1568)8月に、小田原北条氏の出した伝馬文書中に「葛西 新宿」があり、物資の供給と人馬確保のために新しい宿場が開かれた。
 新宿は葛西領内49カ村の中で最大の1626石余の村高を持ち、新宿町とも呼ばれた。新宿は、水戸藩主の他奥州磐城平藩・二本松藩(福島県)、仙台の伊達藩(宮城県)、下総佐倉藩、上総久留里藩(千葉県)などの大名などが通行した。また幕府の官牧である下総小金原(千葉県松戸市)への将軍家の通行もあった。
 宿は、中川橋のから上宿・中宿・下宿、金阿弥町に分かれていた。町並みは有事の際に見通しがきかないよう3カ所で直角に折れ曲がる枡形で、各角には寺社が配された。亀有方面から宿に入ると、最初の角には日蓮宗立増寺・新義真言宗宝蓮寺、次の角には浄土宗西念寺・日枝神社、最後の角付近には浄土宗浄心寺がある。

江戸名所図会 新宿の渡口

天保7(1836)年に刊行された。「松戸街道にして川よりこなたハ亀有といへり、此所を流るゝは中川にして鯉魚を産す、尤も美味なり」と書かれている。
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