葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■江戸東郊としての葛飾 :旅人が見た新宿

 正徳5(1715)年、水戸藩士峯雪山昌隆は旅日記『駅路鞭影記』の中で、「宿の端ニ茶屋有り、餅を売、うばか餅とて名物也、左りニ浄心寺、右ニ西念寺とて有、何も浄土宗也、宿末右ニ隅田川へ行道有」と記している。
 19世紀の文化・文政年間(1804-1870)、十方庵敬順注釈1は、8回にわたって葛飾を訪れた様子を『遊歴雑記』に書いている。新宿については、「川端の右をふじや左を中川屋とて両側に軒をならへ、家居広く門を構へ玄関をもふけ、参勤の諸侯ミな此弐軒にて休息せり、則酒食をひさきて夜は旅客を泊せしむ、此外に能はたこやなし」、「左側なる中川屋庄七が旅店にこそは落着ぬ、当駅に旅籠屋四五軒に過ずといへども、住居広く綺麗なるハ右側の藤屋ならんか、中川屋ハ当駅旅店の第一たり、理なる哉、安藤対馬頭在所岩城平より江戸着の前夜は、かならず当駅に一泊せるとなん」とあり、宿の様子がわかる。
 なお、新宿周辺の河川景観は江戸時代半ばで大きく変化した。18世紀前期までは新宿の西側の現在の中川筋には、葛西用水の施設である亀有溜井があり、亀有と新宿間には下流の締切堤があった。享保14(1729)年に小合溜井ができると、締切堤が廃されて中川が拡幅され、安政4(1857)年、初代歌川広重が描いた浮世絵「名所江戸百景 にい宿のわたし」の景観となる。嘉永2(1849)年の鹿狩りの際には、将軍の通行のため一時的に仮橋が架けられた。

名所江戸百景 にい宿のわたし

初代歌川広重が安政3(1856)年から6(1859)年にかけて制作した名所絵のシリーズの1つ。中川を挟んだ両岸の景色が描かれ、手前には2軒の料理屋が見える。新宿には中川で取れる魚を料理して出す店が数軒あり、重要な交通の要所でもあった。
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新宿仮橋之図「嘉永御狩図会(下)」

将軍の通行のため一時的に仮橋が架けられた。
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注釈1:江戸小日向水道端(文京区)本法寺中の廓然寺4代住職を隠居後、江戸近郊を歩き廻った。