葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第3節 近世の葛飾

■江戸東郊としての葛飾 :金町松戸関所

 金町松戸関所は、現在の葛飾橋(東金町8丁目)から約300m上流の江戸川河川敷にあり、江戸の東の関門として房総・常陸、さらに陸奥方面の出入りを取り締まる軍事上の要所だった。関所は、天正18(1590)年に、江戸に入った徳川家康が、関東周辺部の関所を設置した時期につくられ、元和元(1615)年、大坂夏の陣の翌年には江戸幕府が利根川・江戸川沿いに定めた16の定船場の1つとなった。
 関所の施設は、金町村の新田であった金町御番所町に置かれた。通常は明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)まで開門された。通行には関所手形が必要で、特に「入鉄砲と出女」注釈1といわれた監視が厳しく行われた。

迅速測図にみる明治13(1880)年金町松戸関所 の位置
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土浦道中絵図(宝暦8〔1758〕年)
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関所女手形内相改覚(金町・松戸関所関係文書〔葛飾区指定有形文化財〕)

元禄14(1701)年の女手形。通行する女性の髪型の特徴を記している。髪切、小女などに区分して記載する欄があった。
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覚(鉄砲通行手形)(金町・松戸関所関係文書〔葛飾区指定有形文化財〕)

弘化4(1847)年の手形。鉄砲2挺の金町松戸関所の通行許可を願い出たもの。
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注釈1:関所を越えて江戸に持ち込まれる鉄砲と、江戸から地方に出る江戸在住の女性のこと。鉄砲は謀反に使われるのを防ぐため、女性は人質として江戸に住む大名の妻が江戸を脱出するのを防ぐため、厳しく取り調べが行われていた。