葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■関東の戦乱と葛西城 :関東の戦乱と葛西城

 葛西城は、上杉方によって築かれた葛西地域における重要な軍事拠点として存在した。葛西城の築城年代は不明だが、寛正2(1461)年に足利成氏が葛西城を攻めたとする史料があることや、これまでの発掘調査の成果から、享徳の乱の頃に現在の葛飾区青戸の地に築城されていたと考えられる。
 上杉方が隅田川右岸に築いた江戸城(千代田区)に、扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が入り、葛西城は山内上杉氏の家臣である大石石見守が守備し、太日川(現江戸川)左岸に展開する古河公方の勢力の動きを牽制していた。
  長禄2(1458)年、8代将軍足利義政は足利成氏に対抗するため、兄の足利政知を鎌倉公方として派遣した。しかし、政知は関東の武士の支持を得ることができなかったため鎌倉に入れず、伊豆国堀越(静岡県伊豆の国市)に留まり、堀越公方と称された。
 文明9(1477)年に、山内上杉氏の家臣の長尾景春が、古河公方と対立していた山内上杉顕定と扇谷上杉定正を急襲した(長尾景春の乱)。これに危機感を抱いた顕定は、翌年に成氏と和睦した。その後、文明 14(1482)年には、幕府と古河公方との間で和睦が成立し(都鄙合体)、武力衝突は回避され、関東を足利成氏(古河公方)が、伊豆を足利政知(堀越公方)が治めることになった。

葛西城の想定位置図

発掘調査成果から想定した葛西城の輪郭。南北にはしる大きな道路が環状7号線、東西が国道6号線。東にある川は、中川である。
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葛西城主郭堀の発掘調査
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