葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■鎌倉時代の葛飾と葛西氏 :源平合戦と葛西清重

 『吾妻鏡 』には、葛西清重は源 頼朝の側近として仕え、鎌倉幕府の創設に尽力した御家人であったことがわかる。治承4(1180)年、頼朝は平氏打倒の兵を挙げたが、石橋山の合戦に敗れ、再起を期すため舟で安房国に渡り、東国の武士に参集を呼びかける。9月3日には、頼朝は小山朝政、豊島清元・葛西清重の親子、そして下河辺行平に参陣を求める書状を出している。注目すべきは、この日の『吾妻鏡』に「なかんずく清重は、源家において貞節を抽んづる者なり」とあることで、清重が源家に忠節を示した人物であることを評価している。そのうえで、清重がいた葛西地域が、平家方の江戸氏・河越氏に挟まれており、動きがとれないと思われるので、海路を使って参集せよと、頼朝は清重に対して特に気遣いをみせる指示をしている。このように、頼朝が早くから清重に対して参陣するよう求めた背景には、下総国と武蔵国との境である葛西地域に勢力を持っていた清重の実力を高く評価していたからであり、清重がこの頃葛西地域を拠点としていたことが推測できる。
 源頼朝の下には次第に東国の武士が馳せ参じて軍勢が増え、安房国から下総国市川まで進軍するが、隅田川右岸地域に勢力を張っていた江戸重長が頼朝に従わないため、頼朝は容易に武蔵国へ入ることができない状況であった。そこで頼朝は、葛西清重に重長を討つように命じた。江戸氏は葛西氏と同族であったこともあり、清重は何とか重長を説得し、頼朝に味方させた。頼朝の軍勢は、10月2日には無事に武蔵国入りを果たし、川を渡った頼朝を豊島清元・葛西清重親子が出迎えている。
 そして、治承4(1180)年10月6日に源頼朝は相模国鎌倉へ入った。鎌倉を本拠とした頼朝は、新たに御所を建てるとともに、頼朝と主従関係を結んだ武士である御家人を統制する侍所を設置した。頼朝が勢力を伸ばしていくと、彼を自らの権益の庇護者と認識した関東地方の武士たちは競ってその従者となった。将軍と直接、主従関係を結んだ武士は御家人と呼ばれた。頼朝は御家人に対し、地頭に任命して先祖伝来の所領の支配を保障したり(本領安堵)、功績があった際に新たな領地を与えたりした(新恩給与)。これらの御恩を受けた御家人は従者として奉公を果たす義務があり、戦時には将軍のために命を賭して戦った。
 その後も鎌倉を本拠地として平氏追討を指揮していた源頼朝は、養和元(1181)年に頼朝の寝所を警備する御家人に、武芸が達者な11名を選ぶが、葛西清重はその1人に選ばれている。清重は同年に鶴岡八幡宮の上棟祝いに馬を奉納する役目に任じられ、寿永元(1182)年1月には伊勢神宮に奉納する馬10疋のうち1疋を調達するように命じられている。また同年8月には、頼朝の妻であった北条政子の安産祈願を武蔵国の諸社に行う使節に任じられている。
 葛西清重はその後も源頼朝の側に仕えながら関東地方制圧に参加し、恩賞として治承4(1180)年11月10日に武蔵国丸子庄(神奈川県川崎市)を与えられている。元暦元(1184)年には、平氏追討のため、源範頼を総大将とする軍勢とともに九州に渡った。元暦2(1185)年3月には、頼朝から北条義時や小山朝政らあわせて12人にねぎらいの書を賜っているが、その中に清重の名前も見える。こうして平氏追討を進めた頼朝は、ついに文治元(1185)年に壇の浦(山口県下関市の海域)で平氏を滅ぼす。

葛西清重夫妻肖像部分

室町時代の製作とされる。国語辞典『言海』の編纂者大槻文彦の旧蔵資料。長らく所在不明であったが、近年大槻家から発見された。
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源頼朝坐像

元応元(1319)年以前の製作とされる。源頼朝の容姿を表した現存する像としては最古のもの。
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豊島清光坐像

豊島清元のこと。
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『吾妻鏡』(治承4〔1180〕年9月3日条)

左頁の5行目に「なかんずく清重は、源家において貞節を抽んづる者なり」という文章がみえる。
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治承4(1180)年の源頼朝の進軍ルート図
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