葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■関東の戦乱と葛西城 :鎌倉公方と室町幕府

 鎌倉公方の2代目である足利氏満は、康暦元(1379)年に上洛して3代将軍足利義満に取って代わろうとしたが、関東管領の上杉憲春に死をもって諌められたことで取り止めた。3代目の足利満兼も京都への出兵を計画し、後にとりやめるなど、室町時代初期から鎌倉公方と将軍の対立はあったが、いずれも未遂に終わった。
 こうした鎌倉公方の動向に対し、関東管領の上杉氏は幕府との融和に努めたが、鎌倉公方は上杉氏の対応に不満を持つようになり、両者は対立を深めていく。応永 23(1416)年に前関東管領の上杉禅秀(氏憲)が、鎌倉公方の足利持氏と対立し反乱を起こしたが、持氏は幕府の援助を受けてこれを鎮圧した(上杉禅秀の乱)。乱後、持氏は自身に反対する勢力を討伐し、次第に幕府から自立した行動をとるようになる。
 6代将軍に足利義教が就任すると、足利持氏と幕府の関係はさらに悪化した。持氏は幕府との協調を重視する関東管領の上杉憲実とも対立し、ついに永享10(1438)年、持氏が憲実を鎌倉から追放し、憲実は幕府に助けを求めた。幕府は追討軍を送って持氏を破り、持氏は自害した(永享の乱)。
 その後、上杉憲実も引退し、鎌倉府では鎌倉公方と関東管領がともに不在となる。足利義教の死後、幕府は関東の安定を図るため、文安4(1447)年に足利持氏の子の足利成氏の鎌倉公方就任を許した。なお、それにさきがけて関東管領には上杉憲忠が就任した。
 だが、足利成氏が鎌倉公方に就任しても、鎌倉公方と関東管領の対立は解消されず、幕府と鎌倉公方の関係も悪化したままであった。こうしたなか、享徳3(1454)年、成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに、関東における戦国時代の幕開けとなった享徳の乱が勃発した。これによって関東は、幕府の支援を受ける山内上杉注釈1・扇谷上杉注釈2の両上杉方と鎌倉公方の足利成氏方に分かれ、関東の武士たちを巻き込んで全面的な軍事衝突が繰り広げられることとなった。下総でも、守護であった千葉氏が、上杉方を支持する当主側と、成氏方を支持する一族の側に分かれて争う事態が起こるなど、各地で当主と一族、当主と家臣が上杉方と成氏方に分かれて対立することもあった。
 足利成氏は戦いの中で鎌倉を占拠されたため、鎌倉に戻れなくなり、本拠地を味方が多い古河(茨城県)に移したことから、これ以降「古河公方」と称された。なお、成氏は幕府に対抗して、幕府主導で改元された康 正の元号を使わず、享徳の元号を使い続けた。
 この乱で、関東は東京湾に注いでいた古利根川を挟んで、西側に幕府方・上杉方の勢力、東側に古河公方の勢力が対峙し、極度の軍事的な緊張状態に陥って事実上東西に分断されることとなった。葛飾区域を含む葛西地域は、太日川(現江戸川)を挟んで西側の幕府方の山内上杉氏の勢力と、東側の成氏の勢力とがにらみ合う場所となり、その最前線に葛西城があった。

享徳の乱時の関東の勢力図

太日川(現江戸川)を挟んで室町幕府・関東管領上杉方と古河公方足利成氏方が対峙する状況がわかる。
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注釈1:上杉憲顕を祖とし、事実上の上杉家の宗家で、関東管領職を継承した。鎌倉の山内(鎌倉市山之内)に館を置いたため、このように呼ばれた。
注釈2:上杉重顕を祖とする。鎌倉の扇谷(鎌倉市扇ガ谷)に館を置いたため、このように呼ばれた。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点にした大名。