葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■関東の戦乱と葛西城 :北条氏の滅亡と葛西城の終焉

 北条氏が着々と関東を平定し領国を拡大していた頃、織田信長は室町幕府を滅ぼして天下統一を進めていたが、本能寺の変によって討たれた。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉によって天下統一が引き続き進められていった。四国・九州を制圧した秀吉は、未だ従う姿勢を見せない北条氏を討つため、天正18(1590)年、小田原へ進撃を開始した。
 これを迎え撃った北条氏政・氏直父子は、小田原城をはじめとする複数の城で籠城する作戦で対抗したが、次々に落城・開城させられた。
 このような中で、葛西地域の村々では、戦禍を避けるために豊臣軍と交渉を行い、軍勢の乱入による村内での略奪や放火を防ごうとした。一方で、葛西地域の村々が秀吉の庇護を請うなか、葛西城だけは抵抗を続けていたとされる。秀吉の軍勢にいた徳川家康の家臣戸田忠次の家伝によれば、江戸城をはじめとする周辺の北条氏の城が開城して降伏する中、葛西城は降伏しなかったため攻め落としたと記されている。
 こうして戦乱の時代に幾多の攻防が繰り返された葛西城は、北条氏の滅亡により終焉を迎えた。

小田原攻め豊臣軍進攻図
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「戸田家伝」戸田忠次部分(『寛政諸家系図伝』)

小田原攻めの時に戸田忠次が本多忠勝ら家康の重臣とともに、「武蔵・上野・下野」の城を攻め、葛西城を攻略したことが書かれている。(「上野・下野」は「上総・下総」の間違いだと考えられる。)
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