葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■関東の戦乱と葛西城 :古河公方と葛西城

 小弓公方を滅亡させた戦功によって、北条氏綱は古河公方足利晴氏との関係をさらに強化した。天文8(1539)年には氏綱の娘の芳春院と晴氏との婚儀が執り行われた。これによって北条氏は「足利氏御一家」の格式を得て、古河公方家に次ぐ政治的地位を得た。その後、天文12(1543)年に晴氏と芳春院との間に梅千代王丸が誕生する。
 しかし、北条氏と古河公方との関係は、天文 15(1546)年に亀裂が生じてしまう。古河公方権力の復権を目論む足利晴氏は、山内・扇谷両上杉氏の要請を受けて関東管領上杉憲政の河越城攻めに参加して北条氏と敵対した。河越合戦は北条氏が勝利したため、晴氏の政治的立場は弱まり、北条氏の干渉を受ける結果となった。
 晴氏は芳春院と婚姻する以前に、家臣の簗田高助の娘との間に藤氏と藤政の2子をもうけており、本来ならば長子の藤氏が古河公方を継ぐはずであった。しかし、晴氏は天文21(1552)年、北条氏によって梅千代王丸への家督移譲と自身の隠居を強いられた。
 足利晴氏と妻の芳春院、梅千代王丸の親子は、早ければ天文19(1550)年、遅くとも天文20(1551)年頃には葛西城に御座していたと考えられる。この古河からの公方の移座は、北条氏による古河公方権力の取り込みと抑制を目的としており、北条氏の意向が強く反映されていたと推測される。
 天文23(1554)年、晴氏は葛西城を脱出して古河城へ立て籠もり、再び北条氏への敵対行動に出たが、すぐに鎮圧され、晴氏は幽閉され政治生命を絶たれた。
 こうして、足利晴氏勢力の騒動も落ち着いた弘治元(1555)年、梅千代王丸が13歳の時に元服の儀式が葛西城で執り行われた。梅千代王丸は、13代将軍の足利義輝から「義」の字を与えられ、「義氏」と名乗ることになった。北条氏康はこの元服の儀式に臨席して、北条氏の血を受け継ぐ公方の誕生を祝った。義氏は葛西城に御座したことから「葛西様」と呼ばれた。義氏の居城が葛西城とされたのは、北条氏と義氏の接点が江戸城を守る遠山氏を介したものであったため、当時遠山氏の支配が最も及んでいた葛西地域にあった葛西城が選ばれたと考えられる。
 永禄元(1558)年4月4日、義氏は鎌倉社参のために、葛西城を出発し、10日に鎌倉の鶴岡八幡宮へ参詣を行い、15日に北条氏の本拠小田原城へ入った。その後は、葛西城に戻ることはなく、関宿城(千葉県野田市)へと移った。義氏が葛西城ではなく関宿城に移った背景には北条氏の意向があったとみられ、公方である義氏を通じて、関東内陸部の水運の拠点である関宿を支配し、周辺にある公方領国や関東の河川交通を掌握する目的があったと考えられている。
 永禄2(1559)年に作成された「小田原衆所領役帳」によれば、北条氏家臣で江戸衆の筆頭である遠山丹波守(綱景)をはじめ、江戸衆が葛西地域に多くの所領を持っていたことがわかる。

「足利晴氏判物」(天文21〔1552〕年12月12日付)

(喜連川文書)足利晴氏が梅千代王丸に家督継承する旨をしたためた文書。晴氏の花押が見える。
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「義氏様御元服之次第」冒頭 「義氏様御元服之次第」冒頭

元服の儀式に北条氏康が臨席していることがわかる。
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「小田原衆所領役帳」にみる江戸衆知行分布図

北条氏が家臣に課した軍役などを知行地・知行高で記録したもの。江戸城代の遠山丹波守(綱景)は、葛西城がある青戸をはじめ、葛西地域に多くの所領を持っていたことがわかる。
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