葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■中世の葛飾の暮らしと交通 :中世の葛飾の暮らしと景観

 葛西地域は、古利根川や太日川(現江戸川)・古隅田川の河川に囲まれた低地であり、南側は東京湾の海岸線に面していた。
 この河川と海に囲まれた中世の葛飾では、微高地に村落を形成し、畠地や周辺の低湿地の水田で農耕を、臨海部では漁労を営んで生活していた。14世紀に成立した源義経の一代記である『義経記』には、今井(江戸川区)や亀無(葛飾区亀有)、牛嶋(墨田区)などから数千艘もの「海人の釣舟」を調達して隅田川へ船橋を架ける場面があり、葛西地域で舟を使用した漁労が行われていたことがうかがえる。また、『吾妻鏡』には源頼家の相模川遊覧のお供として葛西清重が従っているが、随行した清重について、「鵜を愛するの輩」として選ばれたことが記されている。清重が葛西地域で鵜飼に励んでいた可能性がある。
 室町時代の連歌師であった宗長の旅行記である『東路のつと』には中世葛飾の景観や暮らしの一端が記されている。それによると、葛西庄は芦が広がる中に人が住む里があり、炭や薪が少ないため芦を燃料として使っているとある。漁労活動が盛んで芦が生い茂るという中世葛飾の景観は、古代の葛飾の暮らしと景観から引き続くものであったとみられる。