葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第2節 中世の葛飾

■関東の戦乱と葛西城 :北条氏と葛西城の攻防

 享徳の乱は一応の終結をみたものの、関東では武士同士の所領争いなどが相次ぎ、各地でしばしば武力衝突が発生した。その頃、伊豆国では伊勢宗瑞(後に北条早雲と呼ばれる)が、明応4(1495)年に堀越公方を打倒し、伊豆国を制圧した。さらに、宗瑞は関東の騒乱の隙をついて、 扇谷上杉氏の領国であった相模国に侵攻し、国内の勢力を次々と制圧していった。
 宗瑞の跡を継いだ氏綱は、関東の支配の正当性を示すため、伊勢氏から鎌倉幕府の執権であった北条氏に改姓し、北条氏綱と名乗った。北条氏は、大永4(1524)年に扇谷上杉氏の南武蔵の拠点を攻略したが、この時に江戸城も落城し北条方となった。これによって葛西城は上杉方の最前線となった。大永5(1525)年に扇谷上杉氏の家臣三戸義宣が越後の長尾為景に宛てた「三戸義宣書状」から当時の緊迫した状況がうかがえる。書状には、北条氏に上杉方の江戸城・岩付城が攻略され、もし葛西城が落ちれば「当国滅亡」は目前と記されている。葛西城は、関東諸河川の河口部に位置する南関東最南端に唯一残る上杉方の城であり、葛西城が奪われると、海と内陸部とを連絡する要衝を失うことになるという危機感が読み取れる。
 この後、葛西城は10年以上も北条氏の攻撃に耐えて上杉方としてもちこたえたが、天文7(1538)年2月に氏綱に奪われている。以後、葛西城は北条氏の軍事拠点となる。
 北条氏綱は関東での勢力拡大を進めるため、古河公方の足利晴氏と連携した。晴氏も、敵対する小弓公方注釈1足利義明への対応のために北条氏と結び、小弓公方の討伐を氏綱に依頼した。天文7(1538)年10月に下総国の国府台で氏綱は、義明と彼を支持する安房国の里見氏と戦い、義明が敗死し北条氏が勝利した(第1次国府台合戦)。隣接する下総方面の敵対勢力が後退することで、北条氏は葛西地域で安定した支配を行うことができた。

三戸義宣書状(大永5〔1525〕年3月23日)」

(上杉家文書)
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北条九代記鴻台合戦

国府台合戦を描いた錦絵で、嘉永5(1852)年に歌川芳虎によって描かれた。中央の騎馬武者が小弓公方足利義明。
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「太田道灌状」

長尾景春の乱の時に景春に味方した千葉実胤が、大石石見守に招かれて葛西に移ったことが書かれている。石見守が葛西城に居城していたことがわかる。
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注釈1:古河公方足利政氏の次男である足利義明が、父や兄の高基と対立し、下総国小弓城(現在の千葉市中央区・緑区)を拠点として勢力を張ったことに由来する。