葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■平安時代の下総と葛飾 :武士団の成長

 平忠常の子は罰せられることなく、その子孫は上総・下総で忠常の地盤を継承していき、後に上総氏・千葉氏を名乗る。相馬郡の地を受け継いだ平(千葉)常重は、大治5(1130)年に所領を伊勢神宮に寄進し、相馬御厨注釈2が成立した。
 平安時代後期の葛飾郡域における豪族の動向を直接うかがえる史料は見出せないが、11世紀後半に葛飾郡北部で下河辺庄注釈3が成立し、12世紀後半には葛飾郡南部の東に夏見御厨注釈4、西に葛西御厨が成立する。
 こうした荘園は、秀郷流藤原氏、桓武平氏らの豪族たちが、中央の有力者や有力寺社に寄進することで成立している。彼らは郎党を従えた武力集団である武士団を形成した。平将門の頃に比べると主従関係の強固な集団であり、後に治承 4(1180)年、源頼朝が平氏政権に対し挙兵した際に、これら武士団が加わることになる。

笠懸(『男衾三郎絵巻』)

走る馬の上から板を的にして撃ち、騎射を鍛えた。
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注釈2:伊勢神宮の荘園は御厨と呼ばれる。相馬御厨は下総国西部(千葉県北西部)にあった。
注釈3:現在の茨城県古河市、千葉県野田市、埼玉県加須市、幸手市から三郷市一帯の南北に長い長大な荘園。開発者は藤原秀郷の子孫の下河辺氏。
注釈4:千葉県船橋市付近にあった荘園。開発主体者は明らかでない。