葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■平安時代の下総と葛飾 :平忠常の乱

 将門の乱後、平貞盛の子孫が常陸国を中心に勢力を伸ばした。下総国では平良文の子孫が勢力を築いていた。長元元(1028)年、良文の孫、平忠常が乱を起こした。忠常は安房守惟忠を焼死させている。この行動に対し朝廷は、忠常と子の常昌を追討する宣旨を出し、追討使を差し向けた。忠常の本拠は明らかではないが、上総・下総に勢力を持っていたとみられる。
 忠常が安房国府を襲撃した背景には、官物の納入を強行する国司と、それに反発する人々との対立が考えられる。乱の最中、忠常は仕えていた藤原教通(藤原道長の子)に書状を送っている。忠常は教通を通し朝廷の追討対象から外されることを望んだようである。この事件も、税をめぐる国司と在地の人々との争いが発端となったといえる。
 長元2(1029)年、それまでの追討使にかわって甲斐守源頼信などの坂東の国司に忠常追討の命が下った。忠常は頼信が常陸介であった長和5(1016)年以前に臣従関係にあったとされる。忠常は頼信に降伏し、上洛途上で死亡した。
 忠常の乱は下総・上総・安房を巻き込み、この房総3国は疲弊した。長元4(1031)年に下総守為頼は、忠常の乱で国内が荒れ果て、飢餓が発生しており、逃散した民衆を農業につかせるために、2年の重任を申し出ている。藤原頼通(藤原道長の子)は勧農注釈1のためこれを許可する旨を述べている。長元7(1034)年には、上総介藤原辰重が忠常の乱後の状況を報告している。それによると、忠常の乱以前には2万 2980 町余りの田があったが、乱の収束時には18町しかなく、辰重が赴任した際は50町余りであった。その後、他国へ散っていた人々も戻り、年々耕作を増やしていった結果、長元7(1034)年には約1200町となった。しかし、官物納入はまだできないため、8年の任期中4年分を納めればよいということが認められた。




注釈1:農業を奨励すること。古代では国司の職務に農業生産を奨励することが定められていた。