葛飾区工業の歴史1

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ページ番号1004950  更新日 平成27年12月16日

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葛飾区の明治期から大正期の工業の歴史を紹介します。 

明治期の工業

中川における晒し布の様子の写真
中川における晒し布の様子

 明治維新による社会改革は、政治的一大転換をはじめ、劇的なものでした。文明開化が激しい勢いで浸透し、新式の通信・交通機関、洋式礼装の採用、洋風建築・ガス燈や洋燈の使用など、国民生活のあらゆる面に外国文明の移入による改革が行われました。経済界も資本主義経済が出発し、政府の殖産興業政策により民間の起業熱が高まっていきました。

 しかし、これら文明開化の余波は葛飾区にまで及ぶことはなく、依然として江戸時代の延長として農村の姿を保っており、工業といえば封建的手工業が農業の副業として行われていたにすぎませんでした。その生産品も、日常生活の需要を満たすためのものが多く、「フノリ」「カワラ」「土器類」の製造、「鍛冶工業」などが主なもので、いずれも江戸時代から伝わる葛飾区特有の家内工業でした。


小菅煉瓦工場で製造されたレンガの写真
小菅煉瓦工場で製造されたレンガ

 明治維新以来、機械工業の輸入とともに、日本に従来から伝わる小規模組織で均一大量生産の不可能な家内工業は衰え、生産の多くは工場工業にシフトしていきます。しかし、葛飾区においては、特有の工業として「フノリ」「瓦土器類」「小鍛冶」「ワラ工品」「布さらし」などや、化学工業としてのセルロイド玩具の製造加工など、いずれも機械化されず、依然として家内工業は存続しました。明治期における近代的規模による工業としては、明治5年創立の小菅煉瓦製作所、明治20年前後に創立された金町煉瓦製造所、明治22年創立の四つ木の日本製紐株式会社が存在するにすぎませんでした。

小菅煉瓦製造所

 明治5年、小菅村(現在の東京拘置所付近)に、日本で最初の洋式による煉瓦製造所が設立されました。これは、小菅村にあった小菅県庁跡(関東郡代伊奈氏の屋敷跡)の敷地4,000坪を 利用して建設されたもので、当時既に地元の農民が官から払い下げをうけて耕作していた場所です。
 明治初期の市街地改造・洋風化により、銀座煉瓦街の建築や道路改修にともなう歩道に敷く煉瓦の需要は膨大なものでした。しかし、煉瓦の製造は、当時の日本としてはまだ不馴れなも のであり、建築用としては十分とはいえない製品が数多く生産されていました。こうした中、 英国人技師ウオートルスの指導により、ようやく良質の煉瓦を大量に生産できるようになり、小菅煉瓦製造所は、銀座煉瓦街で使用される煉瓦の供給元をなすに至りました。しかし、煉瓦建築が少しずつ竣工し、煉瓦街地区が銀座のみに制限されてからは、製品の売りさばきができず経営維持が困難となり、明治12年には、これを政府が買い上げて官営としました。これが、小菅囚治監の煉瓦製造所の前身です。

金町煉瓦製造所

 煉瓦の製造は、明治20年前後に至り、相当の改良が加えられ、その製法も機械的に変わりました。その頃、現在の東金町8丁目江戸川沿岸の旧金町関所跡付近(葛飾橋上流)に金町煉瓦株式会社が近代的設備をもって製造を開始しました。分工場を設けるまでに至りますが、大正7年に渋沢栄一、益田孝など財界有名人の経営する日本煉瓦製造株式会社と合併、その後まもなく閉鎖されました。

大正期の工業

 大正2年に亀有町に日本紙業(現在の日本板紙)の亀有工場が新設され、続いて同年、新宿町に三菱製紙中川工場と江戸川化学工業所(現在の三菱ガス化学東京工場)が創設され、いずれも葛飾区における近代工業の先駆けとなるものでした。このほか特記されるのは、大正3年旧本田村川端(現在の渋江公園)の地に、葛飾区における玩具産業の始まりともいえる千種セルロイド工場が設立されました。これは大正9年の不況により廃業となりましたが、従業員250余名を有する大工場で、その後、渋江、川端、四つ木地域がセルロイド工業の街として発達し、都下はもちろん、全国的にその名が知られるようになりました。

葛飾区のセルロイド産業

 戦後、セルロイド製品は、日本の輸出品の中で重要な役割を果たし、その生産額の約九割がセルロイド工業の発祥地であるこれらの地域で作られていました。セルロイド工場の多くは、家内工業による小規模な工場でしたが、染色工業とともに葛飾区の特色ある工業のひとつです。現在、セルロイド製品は、発火しやすいことから作られなくなり、ビニール、ソフトビニール、プラスチック製品等の製造加工業へと移り変わりました。

三菱製紙中川工場の設置

 葛飾区における近代工業の先駆けである新宿の三菱製紙中川工場が創立されたのは、大正6年です。
 日露戦争後、日本の紙の需要が増大し、これに対処するために設立されました。工場用地の選定に際しては、東京市街に近いこと、鉄道輸送を可能とした常磐線の開通、付近に江戸川、中川などの大河川がひかえていたことなど、水陸両面にわたり交通の便が良いことが理由となりました。この地は、今日のように自動車などによる道路輸送が発達していなかった当時としては、製紙工場操業に極めて好適な場所でした。

葛飾区工業の発展理由

 葛飾区が、現在のように工業地帯として発達を遂げた原因は、その立地条件にありました。  当時、物資の運送手段は、陸運より水運が特に重要視され、江戸川、中川、荒川、綾瀬川に囲まれた葛飾区は最もその条件に適したのです。三菱製紙、江戸川化学(現在の三菱ガス化学東京工場)、日本紙業(現在の日本板紙)、日本建鉄(現在の森永乳業東京工場の場所)、浜野繊維、宮本染色、新理研工業、那須アルミ、東洋インキ、ミヨシ油脂等の各工場は、いずれも中川、綾瀬川の舟運を利用する関係から設立されたものであり、また、舟運のみならず、これらの川の水を利用する工業として製紙業、染色工業、布さらし工業などが発達しました。

大正6年創業当時の三菱製紙中川工場の写真
大正6年創業当時の三菱製紙中川工場
川の水を利用した染色産業の写真
川の水を利用した染色産業

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