葛飾区工業の歴史2

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ページ番号1004951  更新日 令和2年2月26日

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葛飾区の昭和期から現代の工業の歴史を紹介します。 

昭和期の工業

戦前の概況

中川沿いの森永乳業東京工場の写真
中川沿いの森永乳業東京工場

 大正の初期から葛飾区の一部に発達した近代工業は、関東大震災を経て昭和期に入ると、さらに発展の一途をたどります。
 昭和5年の調査では、工場数126、従業員数3,901人でした。しかし、これは従業員5人以上の工場についての調査であり、それ以下のものを合わせると約250の大小工場があったものと推定されます。従業員数について、当時としては比較的女子工員が多いのは、金町にあった紡織工場と四つ木の製紐工場に多数の若年女子労働者が従事していたためです。


昭和30年頃の立石大通り付近の写真
昭和30年頃の立石大通り付近

 その後、昭和7年の東京市への編入以後は地域の発展と相まって各種の大小工場が増加し、同年末の従業員5人以上を有する工場数は131、従業員数も男女合わせて4,321人となり、さらに、昭和11年末には工場数207、従業員数7,178人と激増し、その年間生産額も3,000万円近くに達しました。さらに昭和12年、日華事変勃発による軍需工業の活況と貿易発展の影響を受けて、葛飾区水元・奥戸・その他一部の地域を除いて、葛飾区内各地域とも工業地化が一層進み、昭和18年には軍需景気による一時的現象とも思われますが工業の最も盛んな時期を迎え、工場数は大小合わせて約2,350に及び、年間生産額は極秘にされていたため明らかではありませんが、従業員数は実に58,000人と推計されています。

戦後の概況

 終戦を迎えると軍需工業を主とする工場の多くは、倒産あるいは事業の停止などで、著しくその数が減り、昭和21年には、当時の推計によるとわずか630余りの工場数となり、従業員数も11,000人余りに激減しました。その後、経済の復興と社会情勢の推移により、これらの軍需工業は全て平和産業へと転換されました。こうした中にあって、中小企業は大企業に比べていち早く復興を遂げました。この理由は、その有する設備が比較的簡単で、小回りの利く体制であったからです。その後、物さえ作れば高く売れる時期やドッジ政策の影響による不況の時期など浮沈の後、昭和25年の朝鮮動乱勃発による特需の発生は、当時の産業界に大きな活路を開くこととなりました。

 葛飾区においては、終戦後一時増加した工場数も昭和23年には1,274と低下しました。しかし、朝鮮戦争の拡大とともに再び工場数の増加がみられ、従業員数についても同様でした。その後、昭和27年の四ツ木橋竣工による国道6号線(水戸街道)の整備、平和橋の復旧など交通の発達と葛飾区の立地条件と相まって区内各地に工場の設立が目立ち、昭和28年末には大小合わせて2,117の工場を数えました。さらに、この傾向は年を追うごとに拍車がかけられ、昭和32年末には2,700と激増し、これらに携わる従業員数も男女合わせて43,696人に達し、年間出荷額も600億円以上(従業員4人以上の工場)にのぼっています。これは、その10年前の昭和23年の年間出荷額62億円に比較すると約10倍という膨大な伸長率を示しています。

近年の概況

 昭和30年代から40年代にかけて、葛飾区産業界の発展と高度経済成長の波に乗って、工場設立は増加の一途をたどります。昭和40年代の半ばには、区内の工場数は大小合わせて4,600を越え、昭和30年代後半からおよそ1,500近い増加を示しています。しかし、従業員数を見てみると昭和42年末では大小合わせて63,000人強であったものが、昭和46年では55,000人強にまで減少しています。工場数が増加しているにもかかわらず、従業員数が減少するという傾向は昭和50年まで続きましたが、これは高度経済成長とともに工場の機械化・合理化が進んだことで、人手を要しない部分が増えたことのほか、大企業の区外移転・企業規模の零細化などの理由によるものと思われます。昭和52年・53年に工場数は若干減少した後、昭和54年にピーク(8,153工場)を迎えました。その後は、企業の地方あるいは海外への生産拠点の移転が進み、さらに、バブル経済崩壊後の長期景気低迷や急激な円高の進展等も大きく影響し、昭和58年以降から平成27年まで減り続けています。

現在の葛飾区工業

ロボットによるプレス機械(東新小岩)の写真
ロボットによるプレス機械(東新小岩)

 葛飾区は、東京都城東地域の一画に位置する東京都工業の代表的な工業集積地域です。その工場数は、東京都23区の中で大田区、墨田区に次ぐ第3位を占めています。しかし、その大半が従業員6人以下の小規模工場であり、1工場当たりの出荷額も23区中下位に位置しています。工場を業種別にみてみると、東京都全域では出版・印刷関係の工場が第1位を占め、第2位が金属製品となっていますが、葛飾区においては、金属製品が第1位、一般機械が第2位、そして、特記すべき点として、その他(玩具や事務用品などを含む業種)が第3位となっています(2016都統計部「東京の工業」)。以上のことから、現在の葛飾区工業の特色として言えることは、葛飾区の工場集積は都内あるいは日本国内でも有数の地位にあるものの、各工場をみてみると、そのほとんどが極めて小規模な工場であること、金属プレス、機械部品、粉末冶金製品、ゴムベルト・ホース、玩具、印刷など極めて多様な業種構成となっていること等が挙げられます。その中でも、玩具、工業用ゴム、シャープペン・ボールペン、ボルト・ナット、装身具などは、東京都内において高い地位を占めるだけでなく、全国的にも葛飾区が主生産地となっています。最近の傾向としては、自社製品を有する企業の割合は依然として低いものの、僅かながら多品種少量生産や試作生産への移行が見られ 研究開発を志向する企業も増えつつあります。 また、葛飾区の製造加工技術は、生活消費関連の製品だけでなく、より精度を求められるハイテク産業をはじめ、様々な分野の産業に関わっています。
 また、葛飾区内における地理的な工場分布の傾向としては、中央部を縦断する中川より西側の地域である堀切、四つ木周辺に工場が多く集まっています。

 加えて、葛飾区の工場は、その過半数が工場と同一の建物内に住宅を有し、また、経営者の約7割、従業員の約半数が区内に居住しているデータからも分かるように、その「働く」場所と「住む」場所が、非常に近接した「職住近接型」という点を大きな特徴としてあげることができます。
 これは、臨海部等に政策的に造成された大規模な工業地帯とは対照的な工場の集積形態であり、江戸時代から脈々とつながる長い歴史的な背景の中で形成された集積なのです。こうしたことから、葛飾区では、「住」と「工」が一体となった住工混在型の市街地を形成しているのです。

葛飾区工業の今後の取り組み

 葛飾区は、東京23区中、大田区、墨田区に次ぐ第3位の工場数を有し、その集積は東京都下はもとより、日本全国でも有数の地位を占めています。しかし、その2,100を超える工場の多くが中・小・零細企業であり、バブル経済崩壊後の長期的な経済不況の影響を強く受けているのが現状です。しかし、先の中小企業国会においても示されたように、こうした中小企業こそが日本の製造業の根底を支えているのであり、その有する即応性や機動性、そこに眠る技術やアイデアをいかに活かしていくかが日本経済の浮沈を左右するといっても過言ではないのです。

 葛飾区の工場は、「装身具・装飾品製造業」「アンチモニー製品製造業」「万年筆・ペン類製造業」「玩具製造業・人形製造業」「プレス業」「プラスチック業」「ゴム工業」「メッキ(鍍金)業」「ネジ・ボルト類製造業」「ニット製品製造業」などの地場産業をはじめとして、他に類を見ないほど様々な業種が集積していることが特徴です。これこそが葛飾区工業界の最大のセールスポイントであり、最大のメリットなのです。「あらゆる製品や部品の製造・加工が全て葛飾区内で完結します」をうたい文句に新規の受注開拓、取引拡大に取り組んでいきます。

 また、近年のIT革命に見られるように技術の進歩には目覚しいものがあります。葛飾区工業も新製品の開発に積極的に取り組み、また、新技術を開発することで更に高い精度や技術を追求していきます。
 これからの葛飾区工業(製造業)にどうぞご期待ください。

このページに関するお問い合わせ

商工振興課工業振興係
〒125-0062 葛飾区青戸7-2-1 テクノプラザかつしか2階
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