葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■田んぼを維持する :稲刈りと脱穀調整

 保村や江戸川三次郎などの早稲品種は9月中旬から、晩稲の品種は11月上旬から稲刈りをした。
 刈り取った稲はノロシと呼ばれる竹や丸太で作った稲掛けに掛け干しをした。ノロシは台風に備えて南西の風に直接当たらないよう向きを工夫し、道路傍では3段、田んぼの中では1段ないし2段掛けに作った。秋は晴天が続くことが少なく、掛け干しをしても完全には乾燥しないので、脱穀後にもみをむしろの上に広げてもう一度乾燥させることが多かった。
 脱穀の作業では、大正時代までは千歯こき、昭和初期には足踏み式脱穀機が使われた。足踏み式脱穀機を使えば1日に1反分の米の脱穀ができることから、昭和初期に急速に普及した。脱穀の作業は夜に行うことが多く、一人では退屈なので何人かが集まって競争するように足踏み式脱穀機を使ったという。昭和初期には既に動力式脱穀機も使われていて、中にはリヤカーなどに動力式脱穀機を乗せて貸し出して歩く業者もいた。戦後は動力式脱穀機が多くの家で使われ、稲の脱穀の時期には一斉に電気を使うので電力が不足してモーターが止まってしまうこともあった。
 千歯こきも昭和になってから全く使われなくなったわけではなく、翌年の種にするもみを脱穀するときは発芽する芽を飛ばしにくいので千歯こきを使った。千歯こきを使って脱穀したものは稲穂が残ってしまうことが多く、それを集めてクルリボウでたたいた。これをノゲオコシと呼んだ。
 脱穀が終わったもみは唐箕や万石で良いものと悪いものを選別し、ゴミや実入りの悪いもみを取り除き、カラウスでもみすりをする。これを再び唐箕を使って取り除いたもみ殻を飛ばし、玄米にして俵詰めにする。
 全ての米作りの作業を終えると、ゴミッパライとかムシロッパタキといってボタモチを作りお祝いをしたが、田植え後のサナブリのように派手に行うことはなかった。

稲刈りの合間に(昭和33〔1958〕年、水元小合町 大下〔現東金町〕)

稲を干すノロシが写っている。
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千歯こき

刃と刃の間に実をはさみ、こきとる道具。江戸時代全国に普及した。
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唐箕

江戸時代に普及した農具で、穀物の調整を行うときに用いる。上部の漏斗状の所に穀物を入れ、内部にある羽を動かして風を起こして軽いもみがらなどを取り除く。
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3段掛けの稲架が見える(昭和32〔1957〕年頃、立石6丁目付近)

道路に面したところなどはできるだけノロシを高くして稲をたくさん掛けられるようにしていた。
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住宅地の中に取り残される田んぼ(昭和43〔1968〕年、奥戸新町〔現奥戸〕)
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