葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第1節 家とムラ

■ムラを意識する :村境

 現在において「村」というと、一般的には東京都西多摩郡檜原村のように地方自治体としての村を指す。村にはもうひとつの意味があって、冠婚葬祭などのときの互助や神社の祭りをともに行う家々のひとかたまりの集まりのことをいう場合がある。民俗学や歴史学では自治体としての村と区別するため、カタカナで「ムラ」と表記することが多い。以下本章でも家の集団を指す言葉として「ムラ」という表記を用いる。
 また、葛飾区域では、昭和7(1932)年に葛飾区が成立したときの町の範囲が、ほぼ江戸時代の村のものと一致している。そこで、本章では原則として昭和7(1932)年当時の町名を使用することとする。
 葛飾区では現在都市化が進んで江戸時代以来のムラの様子が景観的によくわからなくなっている。しかし、昭和20年代まで続いていた祭りや年中行事の行為の中にはムラの領域をはっきりと示すものがあった。
 昭和20年代初期まで、柴又町では道饗祭りという祭りが催されることがあった注釈1。柴又の町に悪い病が流行したときなどに、八幡神社の祭礼で行われる獅子舞の装束を着た人たちが厄よけの呪術を行うものである。
 刀を持った大獅子と太鼓をたたく中獅子、子獅子がムラ境まで出向く。ムラ境には丸太を立ててしめ縄を張り、酒を入れた竹筒と幣束を下げておく。3匹の獅子はそこで刀を抜いて十字に切るまねをする。この行為を柴又と新宿・金町・小岩のそれぞれの境で行った。
 八幡神社の獅子舞に用いる獅子頭は通常は門外不出とされていて、いかなるときにも神社の鳥居の外に出してはいけない決まりになっていた。この道饗祭りのときだけが唯一の例外で、数年に一度こうした儀礼が行われた。
 ムラの境を場とした儀礼は他にもあって、水元飯塚町では辻きりと呼ばれる行事を太平洋戦争前まで正月・5月・9月に行っていた。2m程度の長さの笹を残した青竹に15㎝程度の竹筒を下げ、そこに酒を入れ、しめ飾りの輪飾りを飾り付ける。これを水元飯塚町と新宿町、水元猿町、水元小合町との境と集落の中にあった塚と呼ばれる場所の計5カ所に飾り付けた。同様の行事は、水元小合上町や青戸町でも行われ、水元小合上町ではフセギと呼ばれていた。

お宮参り(昭和44〔1969〕年)

細田の稲荷神社。
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注釈1:昭和26(1951)年刊行の『新修 葛飾区史』には、「現在でも悪病流行のある際には直に道饗祭を執行する」(933頁)とある。