葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■田んぼを維持する :農耕馬の利用

 田植えの準備として行う田んぼのうない起こしは、2月下旬から行うのが一般的であったが、下千葉町や金町のように小カブの栽培が盛んな集落では4月下旬になってから行うという具合に、野菜栽培の合間に作業を行っていた。
 最初の耕起をカブタと呼んでいた。前年の稲株を起こす作業である。この作業は馬を使い、馬耕犂で行った。馬耕犂はオオガンと呼ばれる長床のものが江戸時代以来使われていた。松山犂などの新しい形式の犂が普及したのは大正時代以降である。
 耕起した稲株をもう1度馬耕犂で砕いていく。これをケイタもしくはニボナイと呼んでいた。ケイタのあと、肥料を入れ、シロカキといって田んぼを平らにする。マンガ(馬鍬)という農具を馬に引かせ、土をならしていく作業である。
 このように葛飾区は古くから馬耕が行われていた地域であるが、馬を飼っている家は多くなかった。葛飾区域では江戸時代から農耕馬を借りて使う伝統があり、北総台地から多摩丘陵に至る範囲を行き来する農耕馬の貸借慣行のネットワークの一環に入っていた。
 このネットワークの概要は、次のようである。貸し借りされる馬は、田んぼの作業に使われる季節以外のときは、千葉県鎌ケ谷市など北総台地の農家で飼育された。馬の所有権は北総台地の農家が持つ場合が多く、馬を貸す農家では「田馬に出す」と呼んでいた。一方で馬を仲介する二郷半地方(埼玉県吉川市や三郷市などの呼称)の博労や、葛飾区などの農家が馬の所有権を持っている場合もあって、その場合は「預け馬」と呼んでいた。
 この馬は耕起やシロカキの季節になると、二郷半の博労たちが北総台地の村へ出向いて馬を預り、葛飾区などの東京東郊の村々を歩くのである。二郷半の博労たちは馬を貸す土地に来るとそこの地域を仕切っている別の博労に馬を渡し、作業が終るとまた引き取りに来る。
 二郷半の博労の中には馬とともに農家に泊まり、馬耕作業を行っていく人もいた。こうした人を農家では「シロカキ屋」と呼んでいた。
 馬はまず、早稲米の生産が盛んな千葉県松戸市の下谷、古ヶ崎、主水新田などへ行く。この地域は江戸川沿いの低地の集落で、江戸川三次郎と呼ばれる早稲の餅米を主力作物としていた。
 次に八潮市、三郷市、吉川市などの埼玉県南東部の水田地帯を回る。この地域は江戸時代以来早稲米を作る地域として近隣に知られていた。そのあとで野菜栽培地帯である葛飾区、足立区、江戸川区などの東京東部の農村に順に貸して回るのである。
 田植えの準備であるシロカキはほとんどの家で馬を使っていたのでこのときは各集落にたくさんの馬が引かれてくる。このときに集落によってはお祭りのようなことをした。
 水元飯塚町では、シロカキのために馬が集落にやってくると「馬のきゅうすえ」ということをした。馬を間口1m、奥行き2mくらいの木組みの枠の中に追い込み、焼けた火鉢を脛に押し付ける。馬は驚き暴れるが、こうした処置が馬のかくらん注釈1除けになるのだという。この日は集落の祭りの世話役を務める年番が高盛飯を用意し、馬を借りる農家に全ての飯を食べることを強要したという。
 同じような「馬のきゅうすえ」「馬焼き」と呼ばれる行事は、下小松町、上平井町、本田宝木塚町、金町などでも行われていた。下小松町では馬焼きが終わると馬を集めて田んぼの中で競馬をした。
 馬を1日使ったあとは毎日こうりゃんを丸めてたわしのようにしたものを使って丁寧に足や体を洗ってやる。この場所を「ウマアレーッパ(馬洗い場)」と呼んでいた。「ウマアレーッパ」は農業用水近くの決まった場所に、馬を使う人たちが共同で作った場所があった。
 田起こしからシロカキまで、田植えの準備の一連の作業をヒトノウと呼んでいた。馬の貸借料はヒトノウいくらで契約した。ヒトノウが終わるとどこの馬もげっそりと痩せてしまい、馬の所有者はそれを見ると涙ぐんだという。
 しかし、馬の労働はこれで終わるわけではなかった。葛飾区など東京東部でヒトノウの作業が終わると、今度はさらに田植えの時期が遅い多摩川流域の府中市や神奈川県川崎市などに馬を連れて行き、シロカキの作業に使った。博労たちは東京都心を何頭もの馬を引いて通っていった。この馬の貸し借りが縁で、川崎市には葛飾区の人からしめ飾り作りを習い、農閑の副業にしていたという地域がある注釈2
 一連の田んぼの作業が終わると、北総台地に戻る。この地域は谷戸田と呼ばれる、馬が入れないほどの湿田が多く、耕地も狭かったので田んぼで馬を使うということはなかった。馬は馬車馬として使い、薪にする材木などを引いてあわせて堆肥の材料である馬糞を供給しながら秋から冬を過ごすのである。

馬を使って田んぼを耕起する人(昭和30年代、上千葉町〔現西亀有〕付近)

この作業で使われているのは、大正時代以降に普及した犂である。
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オオガン

長い床を持った馬耕犂で、浅く広く耕すことが可能である。葛飾区周辺で明治時代以前から普及していた。
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水田が広がる上千葉町〔現西亀有〕(昭和20年代)
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注釈1:夏によく起こる急性の病気で熱中症や腸カタルのような症状の病気。
注釈2:『川崎市史 別編民俗』による。