葛飾区史

第5章 暮らしの移り変わり


第2節 低地で暮らす

■田んぼを維持する :田んぼの立地

 稲作地帯として知られる埼玉県三郷市早稲田から、昭和10年代に下千葉町に嫁入りした人の話によると、「実家の田んぼは冬になると駆けっこができるが、下千葉の田んぼは1年中股引きを履かないと入れなかった」という。冬になっても水が切れない湿田は、氷がはってスケートができるほどであった。
 金町の大向(現東金町8丁目)にあった水田は、非常に水が溜まりやすく、田植えの時期に上下之割用水から水を入れると田んぼが水没してしまうところがあった。上下之割用水では「番水」といって晴雨にかかわらず決まった日時に水門が開いて水が入ってくる。田植えのために一定の期間水門を開けると、水に完全に浸かってしまい、苗が植えられなくなるほど低いところにある田んぼがあったのである。周辺の田んぼが田植えを終え、水門が閉まると水が落ち着き、ようやく田植えができたという。
 こうした低い田んぼでは秋になって大雨になると水が引かず、稲刈りをするときは田舟を使って刈り取った稲を運んだ。田んぼに水が多くたまってしまったときは人が船に乗って稲の穂刈りをしたこともあったという。
 また葛西用水を使っていた下千葉町でも同じような田んぼがあった。芝原耕地と呼ばれる所は水が掛かりにくく、ここへ田植えのために必要な水を入れると、芝原耕地の周囲の田んぼは水があふれてしまう。そのため耕作者の間で争いが起きることがあった。そこで、毎年水門の開け閉めは、線香に火を付け燃える長さで時間を計り、水が平等にいきわたるようにした。
 このように、土地が低いために田植えの時に水が過剰になってしまったり、少しの雨で水があふれてしまう田んぼがあちこちにあった。現在のお花茶屋駅付近には「沼」と通称される低い田んぼがあった。水に浸かってしまうために畦畔が作れず、となりの田んぼとの境は杭を打って綱を張り、目印にしていた。
 昭和20年代になると葛飾区内の地盤沈下が進み、本田宝木塚町や小谷野町では綾瀬川から排水路を通じて水が逆流してくる現象が随所に見られた。また、田んぼの周りに家が建て込んでくることによって農業用水から孤立してしまう田んぼが出てきた。こうした水のかけ引きができなくなった田んぼは、もともと乾田であっても湿田化していった。
 また、中川の流域にはソトヤと呼ばれていた田んぼがあった。これは中川の堤防の外にある田んぼである。水害があると全く収穫できないこともある不安定な所であったが、無事に稲刈りができると他の田んぼよりも格段に良い収穫があった。

氷結した田んぼで遊ぶ子どもたち(昭和29〔1954〕年、奥戸新町〔現奥戸〕)
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昭和12(1937)年の湿田と乾田の分布

同年の地形図から作成。
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