葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■高度成長期の街並みと学校・道路の整備 :道路舗装の進展と交通事故の増加

 高度成長期の日本では、高速道路などの幹線道路を中心とした道路整備が進み、人の移動や物を輸送する手段として自動車が普及した。
 葛飾区内では、幹線道路を中心に道路の舗装が進んだ。都心から千葉・茨城・福島県を通過して宮城県仙台市まで続く国道6号(水戸街道)の区内区間における昭和35(1960)年時点での舗装率は87.3%、都道は62.8%であったが、区が管理する特別区道注釈1-1は11.2%であった。交通量の多い幹線道路である国道や都道に比べて、幹線道路に接続する特別区道のほとんどは舗装されておらず、砂利道の状態であった。このような特別区道の舗装は、高度成長期に徐々に進められていった。
 また、自動車の普及により交通事故が大きな問題となった。昭和37(1962)年9月、葛飾区議会は「交通安全区宣言」を決議し、同年10月10日には区が区民800人を招待して「交通安全区宣言区民大会」を開催した。
 この区民大会では、東京23区において初めてとなる「交通安全区宣言」が行われた。宣言文では、区の中小企業の発展に伴って自動車の所有者が増加し交通量が増加しているものの、区内道路は全般的に狭く、また踏切の整備が不十分であるため交通事故が国道6号などの主要道路以外でも起こっていること、交通事故を防止するためにドライバーが安全運転を行い、歩行者も交通安全を心掛けることとされた注釈1-2。自動車の普及によって、交通事故防止への関心が高まっていった。

葛飾区の道路舗装率(昭和35〔1960〕〜昭和50〔1975〕年)

各道路の総延長に対する舗装率。
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自動車が行き交う葛飾区役所前の道路(昭和38〔1963〕年頃、立石)
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葛飾区役所横の道路の舗装工事(昭和38〔1963〕年、立石)
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交通安全区宣言区民大会で「ちかいの言葉」を述べる小学生(昭和37〔1962〕年)

清和小学校の児童が交通安全を心がける決意を述べた。
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注釈1-1:特別区の区域内に作られる道路。葛飾区は、昭和28(1953)年より特別区道を管理するようになった。
注釈1-2:「“ 交通安全区 ” を宣言」『葛飾区のお知らせ』(現『広報かつしか』)第112号、昭和37(1962)年11月