葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■ライフスタイルの変化 :「物の豊かさ」を享受する時代

 経済の高度成長の下での所得の向上は、消費の拡大をもたらした。より良い生活を送りたいと望む人々は、日用品に比べて高価ではあるものの、一度購入すれば長期間使うことができる電化製品や乗用車といった耐久消費財を買い求めた。企業の技術革新によって耐久消費財の大量生産が始まったことも、消費の拡大につながった。このようにして、日本は急激に「物の豊かさ」を享受する時代を迎えることになった。昭和30年代初期には電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが「三種の神器」注釈1-1と呼ばれて普及し始めた。その後、昭和30年代後半になるとカラーテレビ(color TV)、クーラー(cooler)、自家用乗用車(car)が、それぞれの頭文字を取り「3C」と呼ばれて普及していった。
 葛飾区内におけるテレビの普及は、昭和30年代から昭和40年代前半にかけて急速に進んだ。昭和30(1955)年にわずか499件であった日本放送協会(NHK)との受信契約は昭和45(1970)年には10万8432件となり、全世帯のうち74.7%が受信するようになった。しかし、昭和45(1970)年のカラーテレビの受信契約数が全世帯のうちの16.7%であったように、昭和40年代前半までは白黒テレビが中心であった注釈1-2。この後、昭和40年代後半にはカラーテレビが急速に普及した。
 また、自動車も急増した。昭和32(1957)年の葛飾区内の自動車台数は3689台であり、このうち最も多かったのは配達などに使われる三輪の自動車1837台であった。この後、昭和35(1960)年時点では軽自動車が最も多く、同年以降は乗用車(自家用と営業用)、トラックとバスが著しく増加した。乗用車の中でも3Cの1つである自家用乗用車は、昭和35(1960)年の1451台から昭和45(1970)年の2万5544台と約17.6倍となった。区が「交通安全区宣言」を行ったのは、このように自動車が急速に普及していった時代であった。

電気炊飯器(昭和30年代)
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電気冷蔵庫(昭和30年代)
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葛飾区内のテレビの受信契約数(昭和30〔1955〕〜昭和50〔1975〕年)
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葛飾区内の自動車台数(昭和35〔1960〕〜昭和50〔1975〕年)

(乗用車は「自家用」と「営業用」の合計。)
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現在の平和橋通りを走る三輪自動車(昭和33〔1958〕年)

京成押上線の踏切付近。
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再現された昭和30年代の茶の間

畳敷きの茶の間に白黒テレビなどの家電製品が置かれるようになった。葛飾区郷土と天文の博物館の郷土展示室に再現されている。
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注釈1-1:天皇の位についたしるしとして、代々、天皇が受け継ぐ3つの宝器のこと。電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビは家庭になくてはならないものという意味を込めて「三種の神器」と呼ばれた。
注釈1-2:昭和43(1968)年4月1日にカラー受信料を新設するまで、NHKの受信契約は白黒テレビとラジオを併せた契約とラジオだけの契約という二本立てであった。カラー受信料の新設後は、白黒テレビだけの契約とカラー受信契約の二本立てとなり、ラジオだけの受信契約は廃止された。