葛飾区史

第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)


第1節 戦後の葛飾

■街並みの変化と工業の振興 :人口の増加

 終戦による海外からの軍人の復員や民間人の引き揚げにより、国内の人口は急増した。中でも東京都などの大都市における人口の急増は、食糧難や住宅難を激化させた。このため、日本の占領政策に当たっていた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大都市に転入する人口を抑える政策を日本政府に指令した。この結果、昭和21(1946)年3月に「都会地転入抑制緊急措置令」が施行され、東京都区部の他、24市への転入が制限された。昭和23(1948)年1月にはこの措置令を引き継いだ「都会地転入抑制法」が施行され、窮迫した住宅、雇用、食糧事情や災害への対処を目的として、同年末まで東京都区部と13市への転入が制限された。
 葛飾区の昭和20(1945)年11月時点の人口は17万1557人であったが、翌年1月には19万6282人と14.4%も増加した。この後、転入が制限された期間においても人口は増加を続け、昭和24(1949)年1月には22万6717人となった。人口の増加はその後も続き、昭和27(1952)年には25万人を突破した。これは、東京の中心部まで約10㎞といった至近距離にあることから、鉄道の駅周辺の既成市街地に人が移り住んだためであった。
 また、復員・引き揚げによって婚姻件数が増加したことで、昭和22(1947)年から昭和24(1949)年ごろにかけて全国的に出生数が激増する「第1次ベビーブーム」が起こった。葛飾区でも昭和25(1950)年の人口の構成を見ると0〜4歳児の人口が他のどの年代よりも多くなっている。

葛飾区の人口の構成(昭和25〔1950〕年)
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