第4章 現代へのあゆみ(戦後~平成)
第1節 戦後の葛飾
■街並みの変化と工業の振興 :工業の振興
葛飾区が道路の盛土工事を進めた理由の1つは、「日本再建の礎」となる区内の1000余りの工場で生産された製品の輸送を円滑にするためであった。
葛飾区内の工場数は、行き過ぎたインフレーションを抑えるためのデフレ政策である「ドッジ・ライン」注釈1が実施された前後の昭和23(1948)年から昭和25(1950)年にかけて減少したが、昭和26(1951)年には増加して1967となった。昭和25(1950)年6月に始まった朝鮮戦争により、アメリカ軍から物資の大量発注があり、特需(特別需要)景気と呼ばれる好景気に沸いたことが区の工業にも影響を与えたのである。工場数は、昭和29(1954)年には2196となった。
工業生産額・製造品出荷額も昭和24(1949)年の約97億円から朝鮮戦争が始まった後の昭和26(1951)年には約216億円と約2.2倍に増加した。さらに道路や橋の整備が進んだこともあり、昭和29(1954)年には約328億円にのぼった。
このように、復興期の葛飾区では人口が増加し、次第に宅地化や道路、橋などのインフラ整備が進み、工場数も増加していった。また、水害対策にも力を注いでいた。
戻る時は右上の×をクリックしてください
戻る時は右上の×をクリックしてください
注釈1:日本経済の復興を目的として、昭和24(1949)年2月から実施された財政・金融の緊縮政策。指導したドッジは、デトロイト銀行の頭取でGHQの金融顧問であった。一連のデフレ政策により行き過ぎたインフレーションは収束したが、企業倒産や大量の人員整理を招いた。