葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■律令国家と大嶋郷戸籍 :租税・労役・兵役

 租税は租・ 調 ・庸などが課せられた。租は6年ごとに作成される戸籍にもとづいて、6歳以上の男女に一定の口分田を支給し、その収穫の約3%を稲で納めさせたもので、主に諸国に貯蔵された。調は絹、布や糸などの繊維製品や各地の特産品を徴収したもので、それらを都まで運ぶために人夫が徴発され、それを運脚と呼んだ。庸は都での労役の代わりに布などを納めるもので、これも運脚によって運ばれた。運脚は道中の食料を自ら用意しなければならず、大きな負担となった。また、国が春に稲を耕作者に貸し付け、秋の収穫に際して利息とともに回収する公出挙があり、その利息は国の重要な財源となった。
 地方では雑徭と呼ばれる年間60日の労役があり、道路や灌漑水路などの土木工事、官衙(役所)の造営などに従事した。労役については他にも上京して官司の雑役や造営事業などに従事させられる仕丁がある。調庸と雑徭が免除され、食料も支給されたが、故郷から京までの道中の食料は往復とも自ら用意する必要があり、仕丁を出す戸にとっては貴重な労働力を取られることから重い負担となった。
 さらに、兵士役があり、正丁注釈13人に1人と規定されていた。兵士は年間30日の勤務で、国に配備される軍団注釈2に配属され、国司 の指揮下に置かれた。諸国の軍団で訓練された兵士は、交代で上京し、 宮城 の門などを警備する衛士となる者もいた。東国の兵士には、はるか遠方の九州北部(西海道)に国防のため配備される防人もいた。勤務は養老令では3年とされているが、それ以上の期間に及ぶことも少なくなかった。




注釈1:調庸や諸役を課せられた21~60歳の男性。
注釈2:軍団は1000人から成り、食料と兵器は自らが用意した。