葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■律令国家と大嶋郷戸籍 :律令国家の成立と地方支配

 7世紀後半から8世紀前半にかけては、大化の改新を経て中央集権的な律令国家体制が形作られていった時期である。支配体制を確立する過程で、中国の法体系である律令を取り入れ、国内に適した形とした。律は刑罰、令は主に行政などに関わる規定である。持統天皇3(689)年に戸令などを定めた飛鳥浄御原令が施行されたが、律については十分な定めがなかった。飛鳥浄御原令制下では、地方の行政区画として国・ 評 ・里を設け、地方支配を進めた。評は7世紀半ば、国 造などの地方豪族の支配領域を統合または分割して設定された。
 その後、大宝元(701)年に刑部親王や藤原不比等らによって大宝律令が完成し、律令制度による政治の仕組みが整備された。大宝律令が制定されると、「評」は「郡」に改められる。全国は畿内と七道に区分され、その下に国・郡・里が置かれた。国は郡が、郡は里が複数集まったもので、里は戸籍の単位である戸が50戸集まると1里になるよう人為的に構成された。そのため、戸には多数の家族が含まれる場合もあった。霊亀3(717)年に、それまでの「里」を「郷」に改め、国・郡・郷・里という構成に再編した。郷は2から3の里から構成され、郷を構成する戸を郷戸と呼び、1郷は50戸で構成された。また、郷戸の内部には房戸と呼ばれる小単位が設定された。天平11(739)年末から翌年初めに里は廃止され、以後は国・郡・郷という構成になる。
 国には都から国司が派遣され、国内の戸籍や租税の徴収台帳である計帳の管理、検察、租・調・庸などの租税の徴収などを行い、役所である国府を拠点に国の支配を行った。また、国内の各郡には郡司が置かれ、郡内の検察や文書処理などを行い、郡家を拠点に郡の支配にあたった。当初、郡司にはかつての国造など伝統的な地域の有力者が任用されることが多かったが、実務に優れた者が選ばれることもあった。郷には郷長が置かれ、地域の有力者の中から任命された。租税の取り立てなどが主な役目であり、郷以前の里長を継承するもので、労役が免除された。

畿内と七道の略図(大宝令制下)
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国府 下野国庁(栃木県栃木市)の復元模型
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