葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■律令国家と大嶋郷戸籍 :下総国と葛飾郡

 古代律令国家は、都を中心として五畿七道の諸国に通じる官道を整備した。東国には太平洋沿いに東海道、内陸部に東山道が通された。30里注釈1ごとに駅家が設置され、駅馬が常備され役人などの使者が利用した。
 下総国は東海道に属した。古代の陸上交通は、畿内から東海地方を経て東国に至る太平洋側のルートでは、相模国(神奈川県)から東京湾を渡り、房総半島に至る経路が設定された。上総国・下総国(千葉県)から常陸国(茨城県)、陸奥国(福島県以北)へ北上するのが東海道本道で、下総国で分岐した道が下総国府(千葉県市川市)に延びていた。
 下総国は、現在の行政区分では、千葉県の北部と茨城県南西部、東京都東部となる範囲であった。下総の国府は現在の千葉県市川市国府台に置かれ、発掘調査の成果より8世紀から 10世紀頃にかけて機能していたと考えられている。下総国には、葛飾・千葉・印旛・匝瑳・埴 生 ・海上・香取・相馬・猿嶋・岡田(豊田)注釈2結城の 11 郡があった。
 葛飾郡は下総国の西端に位置する。南北に長い広大な郡で、南は東京都墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区、千葉県市川市・船橋市西部、北は埼玉県杉戸町、茨城県五霞町に及んでいた。葛飾郡の西部は複数の河川が流れる沖積地(中川低地・東京低地)、東部は洪積台地(下総台地)が広がる。利根川や太日川が郡の内部を流れており、葛飾郡はこれらの河川の下流から中流域までを含んでいる。河川を北上すれば北関東へ移動できる。古来より物資輸送には水運が不可欠であり、南北の長大な郡域は河川の影響を受けたものと考えられる。
 承平年間(931〜938)に編さんされた辞書である『和名類聚抄 』には、葛飾郡内に度毛・八嶋・新居・桑原・栗原・豊嶋・余 戸・駅家の8つの郷の名が記されている。葛飾郡では8世紀前半には大嶋郷が認められるが、10世紀の段階ではその名はみられない。大嶋郷の「大」が「八」に変化して八嶋郷になったと考えられている。

葛飾郡の位置
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注釈1:律令制定当初の1里は約 540 mであったが、和銅6(713)年 には1里が約 640 mに改められた。
注釈2:延喜4(904)年に豊田郡から岡田郡に改称された。