葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■古代葛飾の人々の暮らし :牛馬の飼育と貢納

 『延喜式』によると、下総国には兵部省が管轄する諸国牧が5カ所あった。このうち、浮嶋牛牧は東京都墨田区から葛飾区の一帯とされる注釈1。馬についても、『延喜式』にみえる諸国牧のような国の牧はないが、私設の牧が存在した可能性はある。古代の牛や馬の飼育は、通常放牧を基本とするが、牛馬を放牧する場所として、河川沿いの草地で行われる場合と、海上の島や河川の中州で行われる場合が想定されている。多くの河川が集まり、複雑に入り組んだ河川の流れによって形成された、低湿な中州が多数あったとみられる古代の葛飾は、牧を設置するのに適した地形であったと考えられる。このように、下総国から貢納されていた牧牛皮・牛角・蘇といった物は古代の葛飾郡で収取され都へと送られていた可能性がある。
 また、文武天皇2(698)年に下総国から牛黄(牛の肝にできる結石)が献上されている。牛皮や牛角・牛黄は当時貴重な物であり、牛角を年料別貢雑物としているのは、全国でも下総国だけの特徴であることから、古代の葛飾区域は律令国家にとって牛の飼養と牛に関係する物の生産という点で重要な地域であったと考えられる。さらに推測すると、馬牛の皮を利用して作られる武具などが生産されていたとみられる。
 葛飾区内の遺跡からは古代の牛や馬の骨が出土している。これらの牛馬の骨は、古代の葛飾区域に牛馬の牧があったことを推測させるとともに、農耕に使用されたり、あるいは牛馬を用いた祭祀が行われていた可能性も想定することができる。
 牛牧や馬牧での牛馬の飼養は、古代だけでなくその後の時代にも大きな影響を与えた。『延喜式』の斎宮祭馬条によると、伊勢の斎宮寮の宮売祭注釈2と大祓注釈3の馬は、下総国の牧の馬を充てることになっていた。調と中男作物のうち布の一部と麻が斎宮寮に直送されることとあわせて、下総国は伊勢神宮との結びつきも強かったと考えられる。中世になると、葛飾区域は伊勢神宮に寄進され葛西御厨となる。御厨には牧も含まれると考えられ、伊勢神宮の御厨成立の前史として、諸国牧など牛馬牧をとらえることができる。

『延喜式 』(九条家本)斎宮祭馬条
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注釈1:千葉県千葉市の幕張付近に比定する見解もある。
注釈2:正月と12月の初午の日に、 高御魂命以下六柱の神を祀って不吉を避けて幸を祈願した祭り。
注釈3:人々の罪やケガレを祓い清める神事。