葛飾区史

第2章 葛飾の成り立ち(古代~近世)


第1節 古代の葛飾

■古代葛飾の人々の暮らし :文学作品からみる葛飾の景観と暮らし

 『万葉集 』に収められた歌から復元される古代の葛飾地域は、入江や砂州が複雑に入り組み、潟湖などの湖沼が点在する景観が広がっていたと考えられる。そして、こうした低湿な地域に居住していた人々は、常に水害に悩まされていたとみられるが、一方で早稲を栽培するなどしてうまく自然環境と適応しながら生活していたと考えられる。葛飾区内の遺跡からは、漁労に利用した土錘が出土していることから、古くからこの地域では漁労と農耕を生業とし、自然とうまく付き合って生活していたと推測される。
 時代は下るが、『更級日記』には作者である菅原孝標の女が、父の任地である上総国から京へ帰る際に、葛飾の地を通っているとみられる記述がある。下総国と武蔵国の境に近い葛飾地域は、浜辺は泥土で覆われ、蘆や萩が高く生い茂っていたと書かれている。泥土が浜辺に広がっているということは、平安時代になっても東京低地一帯は多くの河川の河口部、すなわち三角州などのデルタ地帯が広がり、蘆など水辺の低湿地帯を好む植生であったことが推測できる。