葛飾区史

第1章 葛飾の風土と自然


第3節 東京低地と利根川の改変

■近代の河川改修と放水路 :江戸川の改修工事

 明治43(1910)年の洪水後、計画高水流量注釈1は、利根川が3570㎥/分から5570㎥/分へ、江戸川が970㎥/分から2230㎥/分へと大幅に変更された。翌年に始まった改修工事では、天保年間(1830〜1844)以降、利根川と江戸川が分かれる地点の江戸川流頭部にあった棒出し注釈2を取り払い、水門・閘門注釈3・床固め注釈4の設置を行った。下流では、大正5(1916)年に延長3㎞の江戸川放水路を開削する工事が始まり、大正8(1919)年に完成した。大正6(1917)年12月3日からは金町築堤工事が着手された。この改修で、かつて関所が置かれた金町御関所町では、大規模な堤防の拡張で旧関所役人宅が移転し、 鷲神社も下流にあたる葛西神社(現東金町6丁目)に移された。また、葛西神社内でも、この改修で富士塚が現在地へ移転している。
 大正14(1925)年9月には葛飾橋の建設が始まり、昭和2(1927)年4月に完成した。
 江戸川堤の桜は、明治37(1904)年に金町村によって、左右3間(約5.4m)間隔で長さ3000間(約5454m)にわたり2000本が植樹されたもので、多くの人々でにぎわった。河川改修前後の絵葉書や浮世絵を見ると、川と共に生活していた当時の景観を見ることができる。なお、この改修で、 縄文海進の名残りであった国府台・柴又付近の低水路にあった岩盤(海食崖)が取り除かれている。

江戸川河畔川甚(絵葉書)
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江戸川堤の桜花(絵葉書)
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江戸川堤から市川橋下を見る(木版画)
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注釈1:洪水を防ぐための基本となる流量。計画規模の降雨(現在、通 常は 100 〜 200 年に1度の雨量で計画)がそのまま河川に流れ出 た状態から、ダムなどで洪水調整した後の流量。
注釈2:川幅を狭めて水量を制限する設備。
注釈3:水位が違う河川の間で船を上下させるための装置。
注釈4:河道の勾配を安定させるために、河川を横断して川底に設置する低いダムのような設備。