葛飾区史

第1章 葛飾の風土と自然


第3節 東京低地と利根川の改変

■近代の河川改修と放水路 :明治43年の水害

 利根川第3期改修工事中の明治43(1910)年8月6日から14日に起こった水害は、寛保(1742)年の水害注釈1に匹敵するといわれる。利根川などの各河川は、過去最大洪水水位を記録し、上流域では山地崩壊や土石流などが発生した。このため改修計画には大幅な変更が生じた。
 主な被災地域は、埼玉県の平野部、葛飾区域が属した南葛飾郡の7割、東京府南足立郡の半分、北豊島郡の北半分や東京市の下谷・浅草・本所・深川が浸水した。荒川の洪水水位は志茂岩淵付近(現北区)で2丈7尺(8.2m)を観測した。
 東京低地では、8月12日午後2時30分小谷野橋付近が決壊 し、 洪水は本田・寺島・隅田・亀戸村方面に侵入した。埼玉県川口付近の荒川堤防決壊による氾濫とともに勢いを増し、本所・深川・下谷・浅草と神田の一部まで浸水が及んだ。この水害を受けて、総延長22㎞の荒川放水路が計画され、昭和5(1930)年に完成した。

明治43(1910)年水害の関東平野における被害状況
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一府五県水害図
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注釈1:7月27日から雨が降り続き、荒川、利根川が氾濫して関東一円に被害が及んだ。江戸市中の死者は約4000人にのぼった。猿ヶ俣村(現西水元)の堤が切れて、葛飾区が属していた葛西領でも約2000人が行方不明になったといわれている。