葛飾区史

第1章 葛飾の風土と自然


第3節 東京低地と利根川の改変

■葛西領の河川と用水 :描かれた東京低地

 東京低地が描かれた最初の国絵図注釈1に、寛永10(1633)年作成の国絵図の写しとされる「日本六十余州国々切絵図」がある。20年後の「正保国絵図」と比べると、描き方は粗いが、国境として描かれている河川は、当時の状況が反映されている。絵図には、主要な河川、地名、道、居城や御殿である将軍の宿泊施設が描かれる。葛飾区の地名には、「かな川(金町の誤記)」、「かさい(新宿のこと)」、「御殿(青戸)」の3つがある。
 下総国との境界である河川は、地名や道が川を渡る場所から、北から「わと(和戸=現埼玉県南埼玉郡宮代町)」、「かすかべ(春日部)」、「八てう(八条)」という地名から古利根川となる。ただし川の最下流部の葛西領は太日川(現江戸川)である。また「なんとば(南百)」で古利根川に合流する河川は元荒川となる。
 絵図は必要でない部分は描かれないため、「八てう(八条)」からの道が古利根川を渡り「同小倉(金)へ出」の部分に、庄内古川(後の江戸川)が一部のみ描かれている。これは上流部が国境ではないためである。同じ理由で、「御殿」をはさんで東の川筋は中川、西は古隅田川であろう。古隅田川には綾瀬川が合流している。「寛永国絵図」は、古利根川、葛西領では太日川(現江戸川)が武蔵・下総の国境として描かれ、近世初頭の状況を反映している。
 古代以来、下総国葛飾郡であった地域は、その後江戸川を境として武蔵国となったが、葛西領のみはすでに武蔵国に編入されていた。

日本六十余州国々切絵図武蔵国

破線部分を右に示した。
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「日本六十余州国々切絵図武蔵 国」に見る葛飾郡(解読トレース図)

かなり簡略した情報しか描かれていないことがわかる。
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「正保国絵図」に見る東京低地
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注釈1:江戸幕府が諸大名に命じて作成させた国ごとの絵図。「寛永国絵図」は寛永年間(1624〜1645)、「正保国絵図」は明暦年間(1655〜1658)、「元禄国絵図」は元禄15(1702)年、「天保国絵図」は天保9(1838)年に完成した。